『万引き家族』 名前なんて、なんの意味があるのだろうか?


今回見てきたのは、



一週間先行上映で観れた、



『万引き家族』



です!!!!!!!!!!!











<作品紹介>

イントロダクション


親の死亡届を出さずに年金を不正に貰い続けていたある家族の実際にあった事件をもとに、是枝が家族や社会について構想10年をかけて考え作り上げた[1]。

第71回カンヌ国際映画祭(英語版)において、最高賞であるパルム・ドールを獲得した。日本人監督作品としては、1997年の今村昌平監督「うなぎ」以来21年ぶり。


あらすじ

東京の下町に暮らす、日雇い仕事の父・柴田治とクリーニング店で働く治の妻・信代、二人の息子・祥太、風俗店で働く信代の妹・亜紀、そして家主である祖母・初枝の5人家族。家族の収益源は初枝の年金と、治と祥太が親子で手がける「万引き」。5人は社会の底辺で暮らしながらも家族には笑顔が絶えなかった。

冬のある日、近所の団地の廊下にひとりの幼い女の子が震えているのを見つけ、見かねた治が連れて帰る。体中に傷跡のある彼女「ゆり」の境遇をおもんばかり、「ゆり」は柴田家の6人目の家族となった。

しかし、柴田家にある事件が起こり、家族はバラバラに引き裂かれ、それぞれの秘密と願いが次々に明らかになっていく。


キャスト


柴田治:リリー・フランキー
柴田信代:安藤サクラ
柴田亜紀:松岡茉優
4番さん:池松壮亮
柴田祥太:城桧吏
ゆり:佐々木みゆ
柴田初枝:樹木希林


柴田譲:緒形直人
柴田葉子:森口瑤子
北条保:山田裕貴
北条希:片山萌美
川戸頼次:柄本明
前園巧:高良健吾
宮部希衣:池脇千鶴





これだけ観てもわかるように、ちょい役でも豪華な俳優陣を使ってますよね。柄本明さんとか、緒形直人さんとか。それでいて子役には新人同然の子を使うなんてなあすげえ配役だなあと。しかもそれぞれに意味があるように思うんですよ観てると。たとえちょい役で、なんならセリフもないような役でも、ちゃんと精一杯の演技をしないといけないような役柄だし、重要性もある。何を託したのかわかる配役だと思います。


そして樹木希林さん。もう本当に「おばあちゃん」ですよね。本当に死んじゃうんじゃないかって怖くなってしまうくらいおばあちゃんになって老け込んでしまった。もっとこの人の演技が見たい。


僕の好きな山田裕貴さんも出てました。本当にちょい役だったけど。でもこれまでに暴力的な役とか、ボクサーの役とかやってたのを踏まえて、ちゃんとこの配役も意味がある配役になっているな、と。


豪華でありながら無駄遣いではない、という奇跡のようなキャスティングだったと思います。




スタッフ

監督・脚本・編集 - 是枝裕和



音楽 - 細野晴臣


照明 - 藤井勇
録音 - 冨田和彦
美術 - 三ツ松けいこ
装飾 - 松葉明子
衣装 - 黒澤和子


一人何役こなすんだ監督!脚本編集までして、元々の原案も監督だし。そして映画がこの出来栄え。すごい。すごいよ。。。(ボキャ貧)


公式ホームページ


予告編


『万引き家族』本予告

























名前なんて、肩書きなんて、血縁なんて、なんの意味があるのだろうか?「家族」を描き続けてきた是枝裕和監督、2018年の答え。



本作は、是枝裕和監督が長年描き続けてきた、「家族」というテーマをベースに、大タイトルにも書いたように、表面上の肩書きや血縁の意味を問いかけるような映画になっていたと思います。公的に「お父さん」「お母さん」と呼べないような関係性。それでも家族としているのは間違いだろうか?と問いかけています。


僕はこの映画を見ながら、「見えないもの」「言葉にできないこと」をたくさん使った映画だな、と感じていました。そうした形にならないものをたくさんモチーフとして描き出していました。今回はそんなことを踏まえつつも、印象的だったシーンを踏まえて今作で僕が考えたことを文字にして行きたいと思います。


まずは軽くあらすじから行きましょうか。


日雇いやクリーニング屋でのパートをしつつも、万引きや車上荒らし、果ては年金詐取などの悪行を繰り返し生計を立てる擬似家族(治・信代・初枝・亜紀・祥太・「リン」)。そんな家族の元に、ひょんなきっかけから他人の子供が仲間入りする、というところから物語が始まります。家族六人で楽しく暮らしながらも、やがて大事件へと発展していくこの家族。彼らの絆は間違いだったのでしょうか?


①花火のシーン

「見えない」シーンの最初は、花火のシーンです。この家族の住む家は、高層マンションの立ちならぶある都市の一角にひっそりと構えています。周りは茂みに囲まれていて、家の中も相当汚い。こんなことからも、いかにこの家族がこの町で「見えない」存在になっているのかということが浮き彫りになってきますね。


さて、夏になって、家族六人で花火を縁側で見るというシーンが入ります。なんだけど、高層ビル街の一角だから、もちろん花火が見えるはずもない。音しか聞こえないわけです。だけど、家族はみんな揃って縁側に座って、上を見上げている。まるで花火が見えているかのように。


花火鑑賞のお供には焼きトウモロコシなんかがあっていいですねえ。夏ですねえ。てな感じです。


この時の六人は、みんなすごく楽しそうなんですね。花火見えないのに。むしろ見えないことなんてなんの意味もないかのように。ただ、そこに家族がいるということが大事なんだ、とでも言いたげに。


そう、この映画には、「見えないことや言わないことなんて、そんなのなんだっていうんだ。」ってシーンがたくさんありました。



②亜紀の働く風俗店のシーン

姉の役割である亜紀は、ある風俗店で働いています。その風俗店は、マジックミラーのこちらで女の子が様々なコスプレをしてオナニーを見せるという、ちょっと変態度高めな風俗店なんですがw、ブラックミラーというだけあって風俗嬢の側からはお客さんが「見えない」。その代わりコミュニケーションはホワイトボードを使ってとってるんですね。


ここでも「見えない」ということを使った演出になっていました。というか、そういう狙いを持って是枝監督はこの形態の風俗店にしたんじゃないだろうかと思っています。人は見えなくても興奮することができる。見えるか見えないかなんてその程度でしかないんだと。


それから、こういう風俗店にはありがちなサービスなんでしょうが、トークルームてところがあって、そこでは風俗嬢とお客さんとが今度は顔を見せ合って部屋で二人っきりになれるんですね。亜紀とその日のお客「四番さん」は、プレイを楽しんだ後はそこに行ってサービスタイムになります。


そしてなんとびっくり「四番さん」は池松壮亮くんだったんですね!こういうちょっとしたところに実力派俳優を使ってくるあたりすごいですよね!笑


で、その「四番さん」は、実は「声が出せない」という障害を負っていました。だから、亜紀が一方的に話して、四番さんはちいっさなジェスチャーでそれに返すしかない。だけど、その中でわかるのは「四番さん」は自身に対して憎悪のような感情を持っていて、日頃自分を自分で殴ったりしていると。そして、その感情を亜紀もわかると共感しています。それだけで、亜紀も「四番さん」も互いに慰めあって涙さえ流している。


さらにシーンが変わると、二人が恋仲になっていることもわかります。それだけ二人は共感して、お互いをお互いの支えにすることができたのです。


このシーンから感じるのは、言葉というものの不必要さというか、無力さ。「四番さん」をあえて「言葉が話せない障害者」という設定にしたのは、明らかにこうした狙いがあります。「四番さん」の「声にならない」声は、ちゃんと、痛いほどに亜紀に伝わっていました。そして観客にも。声に出さなくても、通じるものはあるんだと。そういうことなのではないでしょうか?


この辺りでは「見えない」こと「声にならない」ことを否定するようなものがありました。



③マジックのシーン

これは考えすぎかもしれないのですが、治(父的役割)が子供達にマジックを見せるシーンがあります。ハンカチの中にハンカチを隠して、ちょっと小細工したら消えてるように見えるというもの。これも「見えてるものなんてこんなもんだぜ」ということとは取れないでしょうか。


実はマジックのタネはごくごく単純なもの。ヒョイっとやっちゃえばすぐにバレちゃいます。それを信代さんに茶化されてちょっと向きになる治さんが可愛らしくもあるシーンなんですが。


ちょっとした小細工で見えるものも見えなくなってしまう。逆に、見えてるものなんてそんなもんだと。だから見えるものなんて対して気にしなくていいんだよ、そんな風に、今思い返すと感じます。





警察との対峙によって明らかにされる、現実・正しさ

そんな日常の描写がいくつもあって、映画全体は4分の3くらいまで行きます。が、そこで大事件が起こります。息子的役割の祥太が警察に捕まったことを発端に、りんの正体がばれ、リンは元の家族の元に。そして”万引き家族”の実態も明らかになり、死体遺棄と年金詐取の罪も明らかになります。ちなみにこの年金詐取事件を元に是枝監督はこの映画を発案したと言われています。


そこで取り調べを受ける一家。そこで、家族の絆の強さとともに脆さも明らかになって行きます。本当に見るに耐えない一連のシーンです。こんなものなのかと。これまで楽しそうにしていた家族はこんなに簡単に崩れてしまうのかと。そしてそれを尋問する警察官の冷たさ。真っ当なことを言っているように見えて、むしろ彼らの方が綺麗事しか言っていないように見えます。


焦点を治の尋問と信代の尋問に絞ると、「言葉にすること」というものの理不尽さが見えてきます。



治の尋問では、「子供に万引きをやらせるの、後ろめたくなかったですか?」と男性尋問官(これが高良健吾!)から問いが投げられます。それに対して治は「それしか教えられるものがないんです」と返す。


でも治さんは間違いなく家族でした。教えられるものがそれしかなくたって、「家族」という概念を子供たちに示したのは間違いなく治さんたちだったとしか思えません。彼らがいなければ祥太は凍えていたかもしれない。リンは家族に虐待されて傷を増やしていたことでしょう。それでも「万引きしか教えられないダメな誘拐犯」として治を処理するしかないなんて。


社会的に「家族」という”言葉にすることのできない”関係性。その言葉の狭さに脱力するしかないシーンでした。



一方、信代さんの尋問。こちらはもっと直接的に「言葉」というものに対して言及していました。


女性尋問官(これが池脇千鶴!)から、「あなたはなんて呼ばれてたんですか?」ときかれる信代。それに対して、困惑し、髪を触りながら、何も言えない。やっとでたのが「なんだったんでしょうね?」というあまりに無力な返答でした。「なんだったんでしょうね」を繰り返しながら、悔しさなのか悲しさなのか、言葉にならない感情を出し始める信代。


この時の演技は驚愕というか、松岡茉優さんの言葉を借りれば「絶望的な」演技でした。これが演技か、という。ほぼ無表情なのに、いつのまにかポロポロと涙が溢れてきて、頬がびしょびしょになっている。それをワンカットでただただ信代さんだけをとるシーンの凄まじさ。ここまで人間はできるのか、と思いました。それと同時に、言葉にすることの無力さも感じたのです。


確かに、信代さんは「お母さん」とも「ママ」とも呼ばれていませんでした。でも確かに私たちの間には絆がちゃんとあったと信代さんは思っていたはずです。言葉なんか関係ない。表現なんてなんでもいい。公的に「家族」と呼べないような関係でも、私たちはちゃんと繋がっていた。そう信じたい。でも、”正しさ”の権化のような警察官の前では、そのことを証明する手立てがありません。”正しさ”の前では、この家族はなすすべなく自分たちの関係性の不純さを思い知るしかない。名前のつかない関係性なんて、彼らにはこの世に存在しないのです。そしてそんな無力さの前で、信代さんはこの家族のあり方に一つのけじめをつけようと思うに至ったのだと思います。「この子たちには、私たちじゃダメなんだ」と。


あるいは、信代さんは警察官にこんなことも言われています。「産まなきゃ(母親には)なれないでしょうねえ」。


これってすごい言葉じゃないですか?ていうかこの時代に完全に不適切でしょう。里親制度だってあるし、同性結婚も行われつつあるこの現代で、「産まないと母親になれない」なんて。時代錯誤も甚だしい。でもこれがこの世の中の”正しさ”なのだと思います。そう思い知らされます。そしてこのやり取りの中で信代さんがなんらかの”産めない理由”を持っているらしいことも明かされます。おそらくそれ以前にしていたと言われている風俗と関係があるのかもしれない。その前提でこの発言をする警察官に怒りすら覚えました。


ここでも、「血縁こそ家族の源」的主義がこの家族に立ちはだかります。では信代さんは母ではなかったのか?強い問いを投げかけるシーンだったと思います。



④バスの中での祥太、なぜ祥太は声を出さないのか

そうして家族が解体され、治は一人暮らしを始め、信代は死体遺棄の罪を一人背負って刑務所へ入りました。亜紀はどうなってしまったのか。そして祥太は施設で暮らすことに。


そんな祥太が、信代の刑務所を訪問し、その帰りに治の家に止まっていくことになる。そこでつかの間の家族をかすかに取り戻し、二人で雪だるまを作ります。このシーンも印象的で、積もった雪に二人楽しみながらも、二人が別々に雪を固める姿しか撮っていません。その固まった雪玉が重なるところは意図して撮っていないのですね。こうしたところからも、二人が同じところに戻ってくることはもうないのではないか、と思わされます。


さて、その日の晩、治は「おじさんに戻ることにしたんだ」と祥太に語りかけます。それから、あの晩祥太を置いて逃げようとしたこと申し訳なかった、と。おじさんに戻るって、何からおじさんに戻るのかはわからないのですが。


そしてあくる日、祥太はバスに乗って施設に戻ります。去り際にバスに乗った祥太を追いかけ走る治。しかし、決して祥太は治の方をふりむきません。決別の印です。


しかし、治の姿が見えなくなってから、祥太は初めて振り返り、治の方を向きます。そして小さく口を動かす。「お父さん」と呼んでいるように見えました。


治は、祥太にこれまで何度か「お父さんって言ってみろ、ほら」と持ちかけますが、必ず「また今度ね〜」みたいな感じでスルーされていました。治はきっと家族というものに憧れを抱いていたのでしょうね。そして祥太は照れからか、何も言えないでいる。


そうした背景があってこの行動を見ると、祥太の口元が「お父さん」と動いているように見えます。しかし、重要なのは、ここで明確に「声に出して」お父さんと呼びかけていないところだと思います。


ここで「声に出して」呼びかけるのはなぜダメなのか。まあダメってことはないんだけど。僕はこれこそが是枝監督の描きたかった「言葉にならない」関係性ということの表れなのではないかと思います。


これまでも散々書いてきたように、この作品には「声に出さない」「言葉にならない」「見えない」と言った、明確化されない関係や感情と言ったものがたくさん出てきました。あるいは明確に見えているものなんてこんなもんだよ、と。それを踏まえた上でこの祥太の行動:声に出さないで「お父さん」と呼びかける、というのを見ると、この行動がより重要に思えるのではないかと思います。


「声に出して」「言葉にして」お父さんと呼びかけることはできません。だって本当のお父さんじゃないのだから。でも、その関係は確かにあった、ように僕には思えます。雪だるまを一緒に作った彼らは、確かに絆を持っていた。そこを「声に出さない」「言葉にしない」という演出で見せたのではないでしょうか。


彼らの関係は、決して本当の意味での家族ではなかったかもしれない。でも祥太の中には確かにその関係性が築かれていた。それをこうした演出で表しているのではないでしょうか。



⑤ラストカット:りんが見つめる先には

バラバラに解体された万引き家族。最後の一人である「りん」ことじゅりは(ここではあえてりんと書きましょう)、本当の家族の元に帰り、それまでと同じような暮らしをしていました。お母さんは化粧に忙しく、構ってくれない。りんの大切なものを分かち合おうとしません。すごく冷たくてドライ。関心がないのです。そして、りんが機嫌を損ねると「服買ってあげるから」と言っていいよってくる。このセリフがホラーですよね。中盤ごろ、服を万引き家族と買いに言った際に「叩かない?」とりんが効いています。これって、服を買ったら叩かれる、みたいな方程式が彼女の中でできてしまっている、ということですよね。この本当のお母さんの「服買ってあげるから」は、そのあとに「その代わり叩くけどね」と続くように聞こえます。


ラストカット。玄関先の廊下で一人遊びをするりん。擬似家族の過程で手にしたガラス玉で遊んでいます。日に当たって光るガラス玉はまるで宝物のよう。それを、お風呂で信代に教えてもらった数の数え方を歌いながら拾っている。そして、ベランダの先を見つめ、映画が終わる、と。


ここでも、りんが見ていたものは観客には「見えません」。あるいは何も見てなかったのか。りんはきっと「家族」を待っているのでしょう。そして待っている間、玄関先に待たされているのではないかと思います。それを踏まえてこのシーンを見ると、りんが「家族」を見つけたように思います。しかし、これはどっちの「家族」を指すのかはわかりません。その「家族」の姿も、「見えない」ものなのです。



『万引き家族』という題名の意味とは?

最後に、『万引き家族』という題名について考えてみようかと思います。この映画の中で、直接的にこの言葉が使われたシーンはなかったと思いますが、これには意味があるのではないでしょうか?


この治を始めとする擬似家族は、やはり法的にも一般的にも「普通の家族」と位置付けることはできないでしょう。そして、彼らの関係性を表す言葉はないように思います。そこで「万引き家族」なのかと。


「万引き」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?


まずは”盗み”。それから”こそこそしてる”とか、”隠れて”とか。こうした形容は、この擬似家族に全て当てはまることですね。彼らは、都会の片隅に、こそこそ隠れて暮らしている擬似家族です。


そして”盗み”という言葉ですが、これはこの映画でのりんと擬似家族との関係性をよく表していると思います。彼らは他人の家族から、一人の子供を盗んだ。あるいは、この擬似家族自体がそもそも他人の家から寄せ詰めて、盗んできた集団でした。


このことはもちろん犯罪です。盗みは窃盗。りんに関しては誘拐です。罰せられることです。やってはいけないことです。


しかし、彼らが万引きをしなければ飢えてしまいます。生きていけないのです。彼らは万引きや幾らかの犯罪をしてなんとか生活を繋いできた。彼らは、万引きしてきたものを糧として生きてきたのです。


これはりんに関しても、擬似家族に関しても一緒。彼らは盗んできたものを、自分たちの家族の中に取り込んで、糧として生きてきた。その過程で「家族」という概念を知り、日常に「愛」を取り込んで生きてきました。やったことは犯罪でも、彼らはそれなしでは生きていけない。逆にそれがあったから生きてこれたのだと思います。


”万引きして”できた「万引き家族」は、したことは犯罪でも、そこで得たものは彼らの糧になっていたのではないかと思います。





まとめ:

以上書いてきたように、この映画には「見えない」「声にならない」「言葉にならない」という描写がたくさん出てきます。というかそもそもタイトルの「万引き」という行為がすでに「見えない」「隠れて」というモチーフに繋がっていたのですね。それにはやはり、この家族の明確化されない、あるいは法的に明文化されない関係というものが表されているのではないかと思います。


一般的に家族とは言い難い、犯罪を重ね、共犯的に隠すことで成立していた「万引き家族」。しかし、その関係を「これは家族じゃない」ということは、映画を通して彼らの生活を見てきた観客にはできないでしょう。見えないから、言葉にならないから、その感情も関係性も嘘なのか。そんなことはないだろう?とこの映画を通して語りかけられているような気がします。花火は見えなくても楽しいし、言葉にしなくてもお父さんはお父さん。それでいいじゃないか、と思わされました。


そして現在でも、年金詐取事件やロッカーで子供を放置し死亡させる事件なんかがたくさん起きています。こうしたニュースをみて、「是枝監督ならどう映画にするだろう?」と考えてしまったりするのですが笑、そうした事件はまさに「見えない」ところで起こっているはずです。その責任は誰が取るのか、そうしてしか生きていけない人をどう思うのか。見えなくても、言葉にできなくても、家族らしき共同体があるかもしれない。それを簡単に捨て去っていいのだろうか?そんな問いかけを感じてしまいます。


この映画を見てどんな感想を持つのか、いろんな意見を聞いて見たいと思います。






余談

この映画が、日本の恥だとかと炎上した、というかしてるようですが、そんな人にこそ見て欲しいな、と思う映画でした。。。名前だけで、筋書きだけで判断して良いのか?という。。。




最後まで読んでくださってありがとうございました!!!