『ミスミソウ』 赤と白の交錯した世界で。

今回見てきた映画は、


『ミスミソウ』


です!!!!!!





トラウマ級の血まみれ姿…映画『ミスミソウ』予告




今更っていう感じです。ずっと行きたかったんですけど、どうも上映館が少ないのと時間が合わないのでやっとこさこのタイミングになってしまった。今回は詳しく感想を書くというよりは自分がこの映画を通して考えて見たことを割とまとめて書くつもりです。言いたいことはもう山ほどあるのだけど!!!!


【あ、これだけは言っておきますが、実写化映画の大大大傑作です!!!!】








※ネタバレあり!



<批評:赤と白の交錯する世界で>


さて、今回は批評(というか批評の真似事、練習)みたいなつもりで書いて行きますね。


この映画、ポスター見てもらったら大体の情報がわかると思うのですが、まず印象的なのが、「赤と白のコントラスト」だと思います。今作には、「赤と白のコントラスト」が非常に多用されていました。今回はこれについて考えて見ました。今作では、このコントラストが非常に重要なものを語っていると思います。



ポスターのコピー、「家族が焼き殺された日、私は復讐を決めた。」です。とりあえずこんな感じの話です(ざっくり笑)。主人公のノザキハルカが、家族をいじめっ子たちに焼き殺されてしまい、その復讐をしてく、つまりいじめっ子たちを次々とぶっ殺していく…というとりあえずこんな感じの話だと思ってください笑。


当たり前ですがこんな感じなので超グロいです。超胸糞です。。。


ちなみにこの主人公の名前も印象的ですし、映画を見れば物語るものが多いことがわかります。なんたって「野に咲く春の花」で「ノザキハルカ」ですから。映画を見ればこの名前がなんのことを言っているのか一目瞭然です。



赤と白、それぞれが何を指し示すのか

で、全体の4分の1くらいのタイミングでハルカの家族が殺されてしまいます。そこからの服装に注目です。普通、家族が焼き殺されたと知ったらら何色の服着ますかね?とりあえず喪服の黒が思い浮かびますね。それから、悲しみのイメージ的に白でしょうか。


でもこの主人公は赤い服を(ポスターできてるやつですね)着始めます。これは何を表しているのか。


実はこの赤という色は、主人公の服だけに登場する色ではありません。さっきも小さい字で書いたように、この映画すげえグロいんですね…。もう死ぬわ死ぬわ。死に方も全国のいじめられっ子たちが「いじめっ子たちがこんな死に方してくれたらいいな〜」と思うような残忍極まりない死に方。よくこれでR15で出したなという。『娼年』のショッキングさと張る、いや勝ちましたね。うん、勝ちました!


ということでもうわかるかと思いますが、赤は血の色としてめっちゃでてくるんです。もう印象的なほどに赤、赤、赤、、、。


この作品では、赤は血の色です。


一方でこの話の舞台になる田舎町の風土にも注目です。これまたポスターを見ればわかる通り、雪景色が広がっています。豪雪地帯なんですね。具体的にどことは言ってなかったと思いますが、本当に降る時には道路のミラーが埋まってしまうような、絵に描いたような豪雪地帯で、そんな舞台なもんだから、ましてや冬の話だもんだから、雪も印象的なアイテムとして登場します。


ということで白は雪の色です。


しかし、白には他のイメージもあるかと思います。灰の色です。主人公の家族の殺され方が放火殺人ということからも、この灰というイメージを連想してしまいます。


赤は血の色。
白は雪の色、そして灰の色。


僕はこの映画に赤と白のコントラストが多用されているのは、こうした「生」と「死」の交錯を連想させるためではないだろうかと思います。



それぞれの色の持つ力。生と死がいかに使われているか。

後半にいくにつれハルカの赤のコスチュームが強くなっていくように感じます。特に最後の山場では、赤いコートに赤いタートルネックという出で立ちになっており、強烈に赤を印象付けてきます。


これは、ハルカが、「生きること」つまり「生」への執着を見せているからなんだと思います。普通だったら自分も家族のあとを追って自殺してしまうような出来事なのに、決してそんなそぶりは見せず、むしろ生きることへの執着を見せていく。そのエンジンは純粋に復讐心なんですが、そんな彼女がとても強くたくましく見えます。


反対に雪の白、あるいは灰の白は登場人物を死の世界へとひきづりこんで行きます。まずはなんと言っても主人公の家族。焼死体で発見されます。実際には焼死体なんで真っ黒なんですけど、灰になったってイメージですかね(ここら辺無理矢理ですね…)。そして雪
。雪の上で赤い血をだらだら流しながら死んでいくいじめっ子たち。グロいやら爽快やら。そしてなんと言っても、激しく降りしきる雪のせいで、死体が雪に埋もれちゃって発見が遅れるんですね。そういうところからも雪と死の繋がりを感じます。


ちなみに主人公たちが通う中学校の制服はセーラー服ですが、そのリボンの色が白です。「普通セーラー服のリボンは赤だろ!」と思った僕ですが、これにもこうしてみると意味がありそうです。この中学はいろんな意味で「死んでいる」のです。陰湿ないじめが横行し、学級崩壊が起こり、そしてなにより舞台となる中学は今年で廃校になるという設定からも、「死んでいる」と言えます。


赤と白の交錯。タエちゃん、死なないで!泣

そんな印象的な赤と白ですが、この赤と白のコントラストがどんな殺戮シーンよりも個人的に一番印象的だったシーンがあります。主人公ハルカと、いじめっ子たちのリーダー小黒妙子(通称タエちゃん)が会話をするシーンです。


タエちゃんは金髪が印象的な女の子。容姿端麗でとてもクールです。何をするときも無表情で何に対しても無関心。将来の夢は美容師ですが、どこかバラバラな印象のする家族にはその夢を反対されています。家ではいい子なのです。


そんなタエちゃんですが、ハルカをいじめていたグループのリーダーにもかかわらず、ハルカの家族殺しには同行しませんでした。しかしハルカが、家族殺しに関与したクラスメイトを次々をぶっ殺していることに感づいたタエちゃんは、いてもたってもいられなくなって、ハルカにコンタクトを取りに行きます。


その時の格好が、真っ白なんですね。本当に、一つたりとも色のついたアイテムを身につけてないんです。雪景色に消えてしまうような真っ白の服を着て、しかも髪の毛は金髪ですからね。もう本当に頭の先からつま先まで白い白い格好なんです。


対してハルカはというと、例の赤いコートを着ているわけです。この二人が並んで会話するシーンがあるのだけど、そのシーンのコントラストが全編通して印象的ですね。


このシーンが象徴しているものこそが「生と死の交錯」ということだと思うからです。


白い格好をしたタエちゃん。同級生を殺していることを薄々感じながらその殺人の張本人に会いにいくということはすなわち死に向かっていると考えておかしくないでしょう。しかも家庭には問題を抱え、美容師になる夢破れた状態でハルカの元に向かうのです。「私も殺されても構わない」「この世に希望なんて持てない」そんな状態だったのではないかと思います。


しかし、ハルカはタエちゃんを殺したりはしません。むしろ、久しぶりにかつての友人と会話できていることに戸惑いと、少しだけほんの少しだけ喜びすらも感じているような気がするのです。それはなぜか。ハルカは、タエちゃんが自分に対してどんな感情を持っているか知っていたから、だと思います。


まずタエちゃんがハルカの家族ごろしに加担しなかったのはなぜか。それはハルカを本質的に落としいれることになるからでしょう。


ではなぜハルカを本質的に陥れるつもりはないのにハルカをいじめていたのか。
それこそが今作の核心になるのですが、タエちゃんはハルカに対して恋愛感情に似た何か特別な感情を持っていたからだと言えます。


そのハルカが、他の男子のところになびいてしまった。ここからは僕の想像ですが、それを見たタエちゃんは自分のところにハルカをとどめておくために、いじめという行動でハルカとの関係をつなぎとめたのではないでしょうか。ハルカを苦しめたいのではなく、ハルカに抱いていた愛情をどこへと持って行ったら良いのかわからなくなってしまって、いじめという行動になってしまったのではないか。


そしてその感情はきっとハルカにもわかっていたのではないかと思います。だからこそ、ハルカは、タエちゃんが家族殺しに関わっていないと、まるで知っていたかのように信じている。そして実際その通りでした。




これは赤と白の話からは少しそれてしまいますが、『ミスミソウ』という映画は、まさにこうした愛情の行き違いのようなものを描いているように感じます。確かに誰かを愛しているのに、うまく伝わらない。何かを愛しているのに、実を結ばない。誰かに愛して欲しいけど、ありのまま生きていても誰も愛してくれない。こうありたいと思う自分がいるのに、そうはできない。


そうした愛情や希望みたいなものの矢印がちぐはくに噛み合わなくなってしまって、齟齬をきたして、それが転がり転がって死体が何体も転がっていく、という様を描いているように思います。


その「好き」という感情、愛情、希望に一直線に向き合える時だからこそ、青春は暴力的でもあるのではないでしょうか。そうした矢印が一つにまとまって「千年先まで届きますようにっ!」と願いを込めるのが『ちはやふるー結びー』における青春だとすれば、そうした矢印が全く噛み合わなくなっておかしくなってしまうのが『ミスミソウ』だとも言えると思います。(ここんところで一番胸にぶっ刺さった二作品を勝手に比べて見ました笑)




さて元の話に戻りますが。
かつて確かに好きだった友達と久しぶりに話した後、帰るタエちゃんにハルカが声をかけます。その一言が、本当に、本当に、この映画に希望をもたらしてくれる尊い光のように感じました。


「胸を張って生きて!」


というこの一言です。


この一言をどう考えたら良いものかと困ったところでもあります。僕なりに考えて見たところ、「あなたは私をいじめていたけど、人殺しはしてない。だから後ろめたく思わないで、胸を張って生きて。」これが一つ目の考え方。


あるいは「辛い現実だけれども、諦めないで、胸を張って生きて。」こうとも取れるかな、と。


どちらにせよ、「これまでの過去は振り切って、私のことはもう大丈夫だから気にしないで、未来に向かって希望を持って生きようよ」、「過去の自分にしょげないで、胸を張って生きていいんだよ!」こういうことでしょうか。


この許し、このエールにも取れるセリフが、この作品の中で唯一まともに、しっかりと愛情の矢印が交錯したところだとも言えるのではないでしょうか。


そして時は流れ。
映像にして30分くらいの時は流れ。


はい。みんな死にましたね。彼女もあの子もあのクレイジー野郎も死にました。じいちゃんもばあちゃんもボコボコにされて虫の息です。。。。


その中で唯一生きているのが、そう、タエちゃんです。


この展開は原作にはないものだそうで、見終わってから知ったのですけど、これにはやはりこの作品に込めた(この作品て映画版のね、)メッセージが色濃く現れているのでしょう。最後の卒業式のシーン、印象的でしたね。もう本当にラストカットまで「ハルカ死んでないよね?大丈夫だよね?」と思ってましたよ本当に。あゝ。


タエちゃんは最後の教室で何を思うんでしょう。そこには、かつて共に時を過ごしたハルカとの思い出が詰まっていました。ハルカの髪を切ってあげるタエちゃん。共に髪の毛をいじって遊ぶ二人。カーテンに包まって遊んで、ちょっとエロさすらも感じさせるシーンです。その思い出のシーンの写りが、本当に柔らかい光に包まれて、アイスなんか食べちゃって、これこそキラキラした青春、って感じですよね。ここだけ見たらマジで『ちはやふる』かな?て。


そんな、愛情も未来への希望も詰まったかけがえのない時を共に過ごした唯一無二の親友はもういない。しかも自分がしたことの末に最悪の形で死んでしまった。しかし私は生きている。生き残っている。生き残ってしまった。この荒野とも言える世界で、私は生きていかないといけない。


そこでハルカの「胸を張って生きて!」のセリフが聞いてきますよね。それでも、胸を張って生きて、と。「あなたの愛情は、確かに私のところに届いたから」、とでもいうようです。


赤と白の話に戻ると、この会話を生んだのも赤と白のコントラストが綺麗なシーンでした。生と死が交錯したところで、生のもつ力に最終的に死へと向かっていたタエちゃんは救われた形になるのです。死の世界に片足突っ込んでいたタエちゃんは、生の世界に引き戻され、今度は生の世界に生きたかったハルカの思い出を抱え生きていく。



桜の色はピンクです。赤と白が混ざり合った色です。
その桜が舞う春に、タエちゃんは美しい思い出のつまった中学校を卒業していくのです。







こんな風に、色に注目してみるとなんとなくただのグロ映画ではないことがわかるような気がします。あくまで映画を見る一視点だと思うし、本当は思いが届かないことの悲しさ、辛さ、そしてその結果いかにして人は狂ってしまえるのか、みたいなことが主題だと思っていて、生と死は実はほとんど関係ないのかもしれません。


ただ、この「色」という要素が映画にはとても必要なのです。特に、実写化作品には。


なぜなら、漫画には基本色がないからです。どうしたってオールカラーにはできません。この赤と白のコントラストは、漫画ではフル活用できなかっただろう、「色」という映像の持つ武器を持ってして初めて成し得たことなのだと思います。


てな訳でこの『ミスミソウ』、実写化作品の大成功例なんじゃないですか?え???どうなんすか??????



あ、あと主題歌のタテタカコさん「道標」、すっッッッッッッッッごく良い歌です!!!てか映画の中身にあいまくっててこんな駄文を読んでるくらいなら一回聞いた方が胸にしみるかと思います。笑







もう一回行こうかな…でもグロいんだよな…誰かを誘っていくようなあれでもないしな…実はグロいのは(特に胸糞映画は)超超超苦手なたちなんだけどな〜…



てな訳で以上です!
最後までお付き合いいただきありがとうございました!!!








87点