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『羊の木』 感想 ネタバレあり(ちょっとだけ) 羊の木ってなんだったの???

今回は吉田大八監督の最新作、『羊の木』みて来ました!!!!!!






とりまあらすじ

市役所にお勤めする錦戸亮こと月末。今作の主人公ですね。「おもてなし課かな?笑」なんていう冗談を嘲笑うように、街に転居してくる六人をおもてなしする羽目に。しかしその素性はなんと全員殺人犯。仮釈放の受け入れ先を”街”にするという暴挙的国策によって極秘に六人の元受刑者を受け入れることになってしまったのです。


この時の月末の演技とか、脚本の構成が上手とか、やっぱり役者さんがおもしれえとかもう言いたいことは色々ありますがとりあえずおいときましょう。


とにかく、六人の殺人犯が街にやってきた、と。そこで殺人事件らしき変死体が港から上がってくると。これはもう誰が犯人なんだ!?ということになりますよね!!!


ていうのが予告編なんですが、実はこの変死体事件はそこまで重要ではなくて。こういう変な事が起こりましたけどこれからどうなってくんでしょう?てなところですね、それにこれは殺人事件ではありませんでした。


というよりはむしろ、この殺人犯たちは過去に一体何をしたのか?そしてそれを受け入れて一緒に暮らすことはできるのか?というところが今作の主軸。ミステリーでは決してないんです。ミステリーではないというより、どちらかというとホラーみたいな印象すら受けてしまいました。



…ていうかこれメッッッチャ怖くない!?!?見終わった帰り道すげえ暗く感じたし、何度も後ろ振り返っちゃったよ!!!『美しい星』の次がこれでしょう?いつから吉田大八監督はこんなカルトでサイコな監督になっちゃったの!?僕の『桐島〜』を返して!青春ものを見して!ほっこりと劇場から返して!!!


という魂の叫びは置いといて。ていうかこれはこれで超好きです!!



信じるか、疑うか


六人が受刑者と聞いてビビる月末。でもそれを知ってなおこの町の住民として心を開こうとします。その結果として宮腰ととくに仲良くなり、友達と呼べる仲になります。結果として想いを寄せる女性、文を取られちゃうわけですけども。相変わらずトホホな役が似合う錦戸くんです。


しかし、そうは言っても無条件に心を許せるかと言われたらちょっと厳しいですよねそりゃあ。というところから、元受刑者たちはどんな経緯で殺人を起こすに至ったのか、そのバックボーンが気になり始めるわけです。その過程で、元受刑者の本当の姿、殺人犯として以上の中身を知り始める。そうすることによって、だんだんと本当に心が拓けていくんですね。


殺人を犯すにはやはりそれなりの経緯がありました。旦那にDVを受けたために殺人を犯した女。愛する夫との首絞めプレイの最中に謝って殺してしまった女。ヤクザとして仁義を通した男。パワハラの末に殺してしまった男。因縁つけられて打ち所が悪くて殺してしまった男(?)。


と言った風に。


とはいえ、これ月末目線での映画なんで、僕らにも彼らの本当の姿は見えないんですね。本当の姿ってか、本当に彼らは信用していいのか?本当は彼らは未だ凶暴な殺人鬼なのではないのか?この街で彼らは本当に平穏に暮らしてるだけなのか?何かやらかしているんじゃないのか?、、、、


という月末がどこか捨てきれない欺瞞と、信じたいという願いを、観客も追体験する形になっていると思います。ポスターにも合ったコピー、「信じるか、疑うか」というこれは、まさにその様をよく表しているように思います。人情味溢れる真人間の一面をのぞかせた後に急に凶暴になるあいつとか、過去のトラウマをのぞかせた後に不可解な行動(やや異常行動)を起こすあいつとか。信じたいんだけど、どこまで信じていいのかを未だに見定めきれていない、信じるか疑うかの間でシーソーのように揺さぶられる私たちの心情をまさに表したコピーだと思います。



吉田大八監督、真骨頂!!


そしてそして!そのシーソーゲームがふつふつと熱を増していき、ついに沸騰し爆発!!!となるのが最後のあたりのあのシーン。出ました吉田大八監督!と言った感じの展開ですね。ニタニタが止まりません。


人間は信じあうところからしか関係を築けない、怖くても信じてみようよ、そして信じてくれよ俺を!という、どこまでも元受刑者たちに手を差し伸べ続ける月末。過去にやったことだって克服してまたやり直せる。だって俺たち友達だろう?と語りかける月末。


それに対して、「俺は俺にしかなれない」、「殺人鬼にしかなれないんだよ」、と哀愁すら漂わせて自分の人生を諦める”男”。月末の差し伸べる手を簡単に振りほどいて、「疑わないとお前も殺すよ?」と迫る”男”。


この信じるvs疑え、という二人のせめぎ合いが沸点を突破した時、「そんじゃあ試してみましょうか!?」と言わんばかりに賭けに出る、という展開でしたね。これはみていて胸が熱くなったし、「どっちが正しいのかわかんねえから、サイコロでも振ってみますか!」的な展開は『紙の月』とか『美しい星』にも通じるところかな、と。吉田大八監督の個性が爆発したところだと思います。


特にそこまでのためというか、まだ来ないまだ来ない、、、でせめぎ合いの舞台となる場所の、位置的な恐怖感を煽っといて〜のあれだもんで、カメラワークからして「うおおおきたあああ」的な反応になってしまいますね。ダイナミック。大八監督の映画の見せ場シーンていつもこれまでの展開には不釣り合いなほどダイナミックでドラマチックなシーンになってますよね。(高校生の話だったのにゾンビが暴れ出したり、銀行員の話だったのに窓から飛び降りたり)


信じると疑うの戦いはどのように納まりをつけたのか。それは劇場で見て欲しいところなんですけど、ただ言えるのは、「そこはそう繋がるのか!」「確かに予想はしてたけどどういう意味だったのかあれは!」という伏線回収の巧みさ、それについての驚きでした。


この話には、元受刑者を受け入れる町民、という筋とはもう一つ別に、古来からの言い伝えという文化が登場するために、より一層ただならぬ空気感が街を覆っているのですが、それが最後にどう繋がるのか。というところも見どこかと。




さてさて。ここまで振り返ってみるとこの映画、人が共生するために必要なのは「疑う気持ち」かそれとも「信じる気持ち」かということを見せてくれた映画だと思います。そして月末が最後にとった行動は、どこまでも人間の希望を信じるという決意表明。相手が誰であろうとも、信じることでしか人と人は本当の意味で繋がれないんだ、というメッセージを感じました。


初対面の人と話す時って緊張するよな〜、顔だけじゃあどんな人かもわからないし超無愛想だったらどうしよう、怖かったらどうしよう、とかっていうあの気持ちを思い出しました。今目の前に立っている、この人のバックに広がる何十年もの人生を想像するあの感じ。この人の顔に合う性格を瞬時に何パターンも想像してしまうあの感じを思い出しました。


怖いのは顔だけかもしれない。優しいのは今の言動だけかもしれない。殺人犯だからっておぞましい性格ってわけじゃない。だけどやっぱりおぞましくて冷酷なやつなのかもしれない。その真偽は、やっぱり付き合って見ないとわからない。付き合って見てもわからないかもしれない。


じゃあどうするのかって、何でもかんでも肩書きとか見た目だけで見切りをつけてはいおしまい、っていうやり方も一つあるけど、とことんまで信じて付き合ってみようよと。その先にぶっとい関係性が築けるかもしれないじゃないか、そう問いかけているかのように思いました。そしてその希望の反対側には、あっさりとその人に裏切られる悲しみや不条理ものぞかせるというダークサイドもきっちり描いているな、と。その不条理の先にあるのが怪我程度で済んだらいいけど今回は相手が相手だけにね〜…。


表面だけではその人の本性がわからないことの不気味さや、性格と経歴が一致しない違和感を、小気味好く演出していたな〜と思います。さすがです!大八さん!!!



「羊の木」とはなんなのか!?


とは言ったものの、すでにお気付きの方もいるかもしれません。そうこのタイトル!『羊の木』って一体何さ?というところですよね。映画批評系のブログでも大体がその話をしているように思います。この問いは避けられないでしょう。


だってほとんど説明されてないんだもん!!!


直接的な説明といえば最初の最初にある引用文。ていうか最初の最初だからなに書いてあったか最後には忘れちゃうよお、、、。


その引用文がこちら。


その種子やがて芽吹き タタールの子羊となる

羊にして植物

その血 蜜のように甘く

その肉 魚のように柔らかく

狼のみ それを貪る

                      「東タタール旅行記」


ナンジャコリャ!ていうか「東タタール旅行記」とか聞いたことないし!てか東タタールどこっ!?


てな訳で、ちょっとよくわからない引用なんですが、「羊の木」で調べてみると、イギリス人が羊は木に生えていてそれを収穫して洋服にしているんだって勘違いしていたことからできた言葉のようなんですけど、どうやらそちらはあんまり関係ない?という感じ。それよか、この引用文のように、伝説の植物という捉え方の方が今回は良さそうです。


羊がなる伝説の木。じゃあその木は何から生えてんだい?ていうところでしょうか?これに繋がるのが、転居してくる元受刑者の一人である栗本清美の行動になります。


栗本は清掃業者で働き始めます。海岸の清掃中に拾ったお皿をうちに持って帰り、玄関に飾ります。それがこの「羊の木」が描かれたお皿。なんとも異様な雰囲気です。



それから栗本は、夕食の時に二匹あった魚を一匹だけ食べて一匹埋める、死んでいたスズメを同じところに埋める、死んでいた亀を小学校の校庭に埋める、という行動をします。動物の死体を埋めるわけですね。普通にお墓作ってんのかな〜と思ったらどうやらそれだけじゃないらしい。羊の木のお皿からヒントを得て、「動物も地面に埋めたら、いや植えたら、そこからその動物の木がなる」という発想を得たらしいのです。


とはいえ、死んだ動物を地面に埋める姿はまさに供養そのものです。これは殺人を起こした人間にとっては普通以上の意味合いを持つはずです。ちなみに栗原の事件の動機というのはDV似合っていた夫に耐えかねて一升瓶で一発、というもの。その事件に関してはどんな風に思っているのかは定かではありません。


ただ、その行動を見る限りコミュニケーションに障害が生じているようだし、他の住人との関係を一切見せない唯一の登場人物です。一方で言動にはこのようにキーパーソン的なものが見られます。その行動を見る限りは、死んだ夫に対して後悔こそ見せないものの、供養しようという思い、死んだ人間を思う気持ちが見られる唯一の登場人物でもあるのかな?と思います。


とはいえ、「羊の木」ってなんだったんだろうな〜?う〜む。。。



エンディング曲「death is not the end」の意味を考察


話変えますね笑


僕は作品のテーマとかメッセージとか、何が言いたいんだ?ってなった時に考えるヒントにするのが「題名」と「主題歌」なんですね。まあ映画に世界を見出そうとするこの姿勢そのものが間違っていると言われれば何もいうことがないのですが。


題名はもう見たとして、主題歌。これですよ。


ちなみに吉田大八監督の作品って、主題歌が特徴的だったり映画の雰囲気と離れたものを持ってきたりすることがあるように思います。『桐島〜』ではそれまで爽やか〜な優しい雰囲気の絵だったのに対して主題歌に高橋優氏を持ってきたり。高橋優がギター一本んで弾き語るていうんだからもう熱い熱い熱い!てなもんですよ。そのギャップたるや。


なんですが、曲のテーマと映画のテーマがピッタシあってるのもその特徴なのかもしれません。それこそ『桐島〜』がそうだと思います。ごめんなさい桐島の話ばっかして。。。


今回はボブディランの「death is not the end」。ノーベル賞も手にした世界的なシンガーの曲をカバーしていました。


さてこの歌詞なんですけど、「一人で寂しくても友達がなくても、死は終わりではない。」ていう風な歌詞が何パターンも続いていく、というディランお得意の手法です。にしてもこの内容です。


「あなたの秘密が全部バラされてしまっても、死は終わりではない」
とか、
「夢が潰えどうしたら良いのかわからなくなっても、死は終わりではない」
とか、果ては、
「あなたに手を差し伸べる快い人がいなくても、死は終わりではない」
とか言ってたり。


そしてそして終盤に至っては、
「命の木は、精神が決して死なないところに育つ」
「そして救いの眩い光が、暗く空虚な空に輝く」
と、これ「命の木」っていうのがまんま「羊の木」につながっていますよね。


という風に、映画の内容とがっつり合致する曲になっているように感じてしまいます!


この曲というのが、羊の木は何を意味するのかというところを紐解く鍵になっているのではないでしょうか。


にしてもこの「死は終わりではない」というのはなんでしょう?普通、こういう歌詞だったら、「人生は終わりではない(life is not the end)」とくるのが普通でしょう。「どんな絶望があっても、周りに救いがなくても、人生まだ終わりじゃないよ?」みたいな。そこを「死は終わりじゃない」と。さすがノーベル文学賞。


この歌詞なんですが、僕には人生に絶望しないで、というメッセージのように聞こえます。ただ、普通の言い方ではなくて、「この世がどんなにひどくても、これだけは覚えといてね?死んだって終わりじゃないんだからね?死ぬ選択をしても、生きる決意をしても構わないんだけど、死んでも終わりじゃないからね?」みたいなそういう言い方に聞こえたんですよね〜。


そしてこの「精神が死なないところに”命の木”は育つ」これは一体。う〜む。



信ずるところに木は芽吹く


前述の話から考えるに、この精神っていうのは「人を信じる精神」ていうことなんじゃないだろうかと思うのです。少なくともこの場合。ディランがどういう意図を持って書いたか知らんのですが。


人を信じる精神に、命のき=羊の木は芽吹く。


さて、栗本の話に戻してみると、彼女は人殺しな訳です。その人殺しが、死んだ魚やら鳥やらを埋めている。それがいつか木になり、新しい命を生み出すことを望んでいる。そしてその木を成長させるものは人を信じる精神だとしたら。その下に埋まっているものは。


彼らが殺した人々と考えるのはちょっと飛びすぎかな〜…。。彼らが殺した人々。その人々のしは決して「終わり」なんかじゃなくて、新しい人間関係という羊を生み出す生贄となったのではないだろうか、と。


それで言ったら、生贄という感上げ方、ありましたこの作品に。のろろ様という土着の神様への生贄として、昔の人々は二人の生贄を差し出していました。しかしそのうち一人は生き残り、一人は死ぬ。この構図が最後に生きてくるんですね。


そしてその一人のしはその後どのようになったか。人々が受刑者を受け入れるに至るきっかけとなったともいえるでしょう。その生贄の死によって、人々の”共生”という羊を生み出したのです。それによって生み出された関係性、それも信頼や愛情によって育まれた関係性は最後には5つ見せられています。


太田とその恋人(月末の父)、福元と床屋の店主、大野とクリーニング屋の店主(田中泯さんがぎこちない笑顔で自撮りするの可愛かった)、月末と文、そして栗本は初めて小学生と”会話”をします。


この5という数字は、劇中に出てくる羊の木の皿になっている羊の数と一致します。


だから、死は終わりではなく、それによって生まれる何かための生贄なんだと。そういう残酷かつ希望ある考え方もでいるのではないでしょうか。ああこれな〜違う気がする〜〜〜〜。







ちょっと今回これだけってのも微妙なんで、気になったところはまとめてみました。箇条書きで。追記していきますんでよろしくお願いします、、、雑、、、、、、



・床屋さんのシーン笑える
・お祭りのところ、カルト的演出
・どこだどこだと楽しみにしてしまう、吉田転換点
・煽りに煽るラストまでの10分くらい。怖い。いつくるのいつくるの展開
・『羊の木』とはなんだったのか?
・ぶちぎりカットの連続。怖い。行間を読ませる脚本と編集。特にボートのシーン。
・のろろ様とは何者か。