感想『DEVILMAN crybaby』が良すぎたので感想を書く。Part2

いやはや。初めて3ヶ月のブログがここにきて爆ぜておりましてビビっております。とは言ってもまだまだちっっっちゃいもんなんですけど。


前回出したのが
『DEVILMAN crybaby』が良すぎたので感想を書く。Part1


ということで、全部書かないのかよ詐欺みたいなことをしてしまいました。というのも、書きながら(だいたい一記事書くのに小分けにして三日くらいかけるという遅さ)「こりゃあ全部書ききらんな」という思いが噴出し始めてしまい、全部書くころにはデビルマンの熱が冷めてしまいやしないだろうかと思ったわけで。ここに謝罪致します。


てな訳で、前回ではビジュアル面についてしか書くことができませんでした。それだけでひとつ記事ができてしまうというあたり、このアニメのすごさをわかっていただきたく思います!


しかし!『DEVILMAN crybaby』の本当のすごさはここだけではない!いやむしろ、ここからが本題なのです!と私は思っております。


今回はテーマ論について語りたいと思います。各キャラクターが果たす役割とは何か。このアニメでは何が言いたかったのか。なぜ今『デビルマン』なのか。何を伝えたかったのか。そして個人的にはそれについてどう思ったのか。


そこはかとなく書き綴りたいと思います。できるだけまとまった文章にしようと思いながら…。






なお、作品情報は前回のページよりご覧下さい。



感想

愛はない。愛などない。故に悲しみもない。そう思っていた…。
人の体を持ちながら悪魔に成り下がる人間の、悲しみと業の深さを思い知る全10話!!!





普通のバトルアニメとしての面白さがちゃんとあります。


さて、こいつをどっから書こうかな。


前回ざっくり説明したあらすじを前後半に分けて、ちょっと詳しく(もちろんネタバレはなるべくしない方向で)していこうと思います。実はこの作品、前半と後半に分けますと、その切れ目が6話と7話にあるように思っています。


まずは前半から。
冴えない高校生だった不動明は、親友の飛鳥了とともに謎のパーティへ行く。そこは謎の生物(?)「悪魔」の巣窟であり、その調査を了は行なっていた。そのパーティでは、人間を食い尽くす悪魔の数々。そして明自身も、その悪魔に取り憑かれてしまいます。しかし、奇跡的に人間の心を持ち続けることに成功した明。悪魔の肉体と人間の心で、人間を食い尽くす悪魔どもを狩っていく”デビルマン”として行きて行きます。


ほんで、6話までは基本的には、デビルマン&飛鳥了vsデーモン(悪魔)の戦い。1話完結っぽい雰囲気まである。つまり、一見典型的なバトルアニメと言えたりするのかなって思えるわけです。しかし、「一見」といたように、ことはそこまで単純じゃない。というのがわかってくるのがこの6話までなんですね。


確かに。最初に出てくる大型デーモンの…なんだっけ名前。記者をやってるわけです。そいつの性格がまた悪いこと悪いこと。美少女陸上女子高生のミキ(今作のヒロイン!!!)のお風呂ショットを隠し取ろうとしたり(許せん!!)、デビルマンである明の正体を面白半分に世間に公表しようとしたり。今の週刊誌記者の典型的なやつだと言えます。



ちなみに僕としてはこういう記者の書き方ってあんまりすきじゃあありません。週刊誌記者にだってもうちょっといいやついるっしょって思ってます。特に文春のイメージが強くて、悪者扱いされること最近多すぎますよね。ちょっと違和感。まあいいや。


でもってこいつを倒すんですけども。倒し方がちょっと変わっていて、ぶっ飛ばす!とか必殺技で!とかじゃなくって、こう、地味〜にめためた倒してくんですけども。ていうふうに、デビルマンがヒーローで勧善懲悪!デーモン退治!なアニメか〜なんだ〜というふうに思っていた3話まで。まあ勧善懲悪的なのももち大好きなんですけど!



自分との戦いを物語る重要なタームポイント、第4話。


とここまでは割と普通のバトルアニメでしたね。でももちろんこれだけじゃない!こっからなんだと。


まず出てくるのが、自分との戦い、という問題でした。「悪魔」という存在を、どう捉えるのか。設定的には人間を超えた超生物、人類を滅ぼす生物、ということなんでしょう。しかし、その悪魔は人間に取り付いて悪さをする。人間を凶暴なものにしてしまうんです。このことが何かの暗示として使われ始めたのが4話からだったように思います(もしかしたら僕が鈍いだけでもっと前からだったのかも)。


というのも、取り付いた悪魔と、それに取り憑かれた人間、という対立が4話で初めてみられるのです。その4話。このストーリーで展開されたことといえば、まずは何と言っても「名前」をめぐる葛藤ですね。これはミーコとククンという二人の存在が象徴的に表していました。



このミーコとククンについて話さないといけないですね。


先ほどミキという少女の話をちょっとだけしたと思いますが、ミキというのは名実ともに
天才陸上少女として全国的に注目を浴びています。そしてミーコというのが、そのミキのライバルとして登場するのです。ミーコと作中では呼ばれていますが、実はこの少女もミキという名前でした。しかし、天才少女と名前が被ってしまったため、その呼び名を取られ「ミーコ」と呼ばれていたのでした。



ミーコはミキの才能に嫉妬し、ミキの誰からも好かれる人柄にも嫉妬し、いつも二番手でミキに勝てない自分自身を呪って、嫌っていました。そんな自分をひた隠すために、努力家な自分を作って、日々嫌いな自分と戦っている、そんなふうに僕には映りました。


さて一方、ククンという一風変わった名前の男の子ですが、これはこのcrybaby版でのオリジナルキャラとして注目されている(?)、ラッパー集団の一人です。その集団の中ではちょっと見下された存在らしく、その汚名を返上するために、俺はいつかビックになるんだ、と夢を語ります。ラップで。



え?ラップで?、、、まあ、いや、そこはいいでしょう。


…いやよくないでしょう!(なんだ急に)。このシーン!度肝抜かれましたよ!本当に!1分半ほどにもわたる長い尺でのラップ!そこに詰まっていたのは、劣等感を克服しようともがく一人の若者の姿でした。そしてその姿に、ミーコも触発されるのです。いい触発の仕方だったらよかったのだけど…。



そして4話でもう一つの戦いといえば、「デビルマンvs礼次郎(に取り付いた悪魔)」となるでしょう。


礼次郎というのは、何を隠そう、デビルマンこと不動明の最愛の父なのです。その礼次郎とその妻、つまり明にとっては実の母は海外に行っていましたが、帰国してきます。その最中、悪魔に取り憑かれた礼次郎が母までを食い殺し、乗客を襲う事件が発生。そうとは知らない明は、悪魔と化した礼次郎と直面することに。


悪魔になったとはいえ、最愛の父です。そう簡単に殺したりはできない。だから明は呼びかけます、人間の姿のままで。「父さんも勝ってくれ、悪魔に!」


体は悪魔になったとはいえ、人間の心を取り戻してくれ、と。実際に明はそれに成功していました。しかし礼次郎に取り付いた悪魔は内側から叫びます。「怖い!」「もう諦めよう。」と。


そう、悪魔とは、人間の内側に潜む「諦めの気持ち」「恐怖」、もっといえば、弱い自分そのものだったのです。というか、僕にはそう思えました。


そして、それに直面した明にも、どうしようもなくなった今、実の父を殺すという人の子としては許しがたい行為に踏み切らないといけなくなる事態まで追い込まれます。そこで明が本当に直面するものは、悪魔そのものの強さや脅威ではなく、「より多くの命を救うために自分の父の体を破壊する」という残酷な決断でした。しかし、明は結局その行為を成し遂げます。それは、デビルマンとして、いや人間として、正しいことをすることが両親の真の思いだということを(かなり残酷な形で)受け入れることでした。



というように、ミーコとククンは認められない自分像と、礼次郎は自分に住み着いた悪魔(恐怖や諦めの弱い自分)と、明は家族を失いたくない自分自身と、戦っていたのです。そしてその戦いは全て、自分の内面との戦いでもあった、と僕は見ています。


4話にして、悪魔=自分の(あるいは人間の弱さ)という暗示につながっているのではないか、そしてデビルマンの表すところとは、その弱さを抱えながらもそれに打ち勝った姿、と言えるのではないでしょうか?



価値観の逆転。悪魔に取り憑かれた人間は、救えるか?


5話ではその線はどうなっているのか。


明は悪魔特有の破壊衝動、性衝動に悩み、ミーコはちょっといえない展開に。そして自分の嫉妬心をあらぬ形へと変形させていく。


ということで、4話では各人健闘していた自分への弱さに、今度は翻弄され、あわや負けてしまうのでは…という展開になってしまっています。こいつは危うい。


そこで!出てくるのは!そう、シレーヌ!!!!(そう、とかって言われても知らんですよね…)


大改変とか、改悪とすら行っているブログもありましたが私モトを知りませんのでなんともいえません!だが!このシレーヌが本当にいい味を出していることに僕は揺るぎない信頼を置いているのです!


そのいい味とは、そう、「悪の美」とも言えるような、徹底的にまで悪な姿。


うちなる自分に翻弄される明と、悪の方向へと振り切れたシレーヌ。その美しさ。その死に様。これはカイムというシレーヌとともに明を追う悪魔が放った言葉に全て集約されるようです。「シレーヌ、血まみれでも、君は美しい」どれだけみっともなく痛々しくても、それですら美しい、と。



カイムはこの後、自らの命をシレーヌに託してデビルマンの抹殺をシレーヌに託します。そしてその二体の悪魔の姿を明は「俺には、愛に見えた」と評しています。


…やべ!書きすぎた!!


こちらが5話の内容になっているのですが、4〜5で何が起こったかというと、悪魔というものに対しての立ち位置が不明瞭になってきているのです。


怒り、嫉妬、不安、恐怖、悔恨、、、悪魔に取り憑かれた人間には様々な負の感情がまとわりついてきます。そしてそのまとわりついた感情が悪魔によってエスカレートしていく。そしてその感情に負けて、悪魔に飲み込まれてしまった人間は、完全に自分を失い、凶暴化してしまう。悪魔を人間の内側に潜む弱さや脆さと置き換えることで、どんな人間にも凶暴化してしまう一部があると思わされてしまう。そんな作りに思えました。


一方、5話で描かれたように、悪魔にだって愛があるのではないか、まだ救う余地はの子されているのではないか?という問いかけも登場し、その問いがデビルマンこと明を苦悩させていきます。ただ狩るだけで良いのか?彼らは、もう救えないのか?悪魔はもう一度愛を思い出すことはできないのか?悪魔の愛を信じることはできないのか?


という苦悩に結論を出すのが第6話。前半部の終了です。


ここでデビルマンの立ち位置が変わります。デビルマンは単純に悪魔を”狩る”だけの存在ではなく、悪魔に取り憑かれた人間を「まだ救える」「まだともに生きる余地はあるんだ」という信念で、”救う”存在になるのです。


ここが重要なところだと思います。それまで危険視していたものを救う。そんな暴挙にも見える行動が、果たして後半でどう作用してくのか、希望を感じつつも「いやそんなうまくいくかね?取り憑かれた人間を救うって…」とも思わせますけどね。


悪魔に取り憑かれても愛はある。救うことができる。そう心を決めて、悪魔に取り憑かれた人間を救う、という当初とは別の目的のためにデビルマンが動く!というところで肝心の6話が終了します。


なんども言いますが、「悪魔に取り憑かれても愛はある」「共存できるんだ」という信念がその後どう響いてくるのかが後半部のテーマになってくると思います。






凶暴なのは悪魔なのか人間なのか!?世界が一変する!!


7話は冒頭から長尺ラップで始まります。しかしそれは前回のように夢や自らの弱さをも克服しようとする希望あるものではありません。悪魔の存在が白日のもとにさらされて、人類が恐怖に怯えた結果、人間世界がどのようになってしまったか、その絶望を、現在の状況と合わせてラップにしているのです。


さて、その人間世界はどうなってしまったのかなんですけれども。悪魔ってのは目にはわからない。誰に悪魔が取り憑いているのか見分けることなんてできないんです。だから人はどうするか。勝手に決めつけて、「こういう奴が悪魔なんだ」「こういう奴は怪しい」などとああでもないこうでもないと理屈もなく並べ立てているのでした。いやそれだけならまだいい。それをもとにして「あいつは怪しい!悪魔だ!」と根拠なく攻め立てる。言葉を借りれば「殺されるのはいつも弱い奴、それは変わらねー」そして、「疑心暗鬼暗中模索始まる負の連鎖」。誰が悪魔かわからない中で、自分の身を守るために人は怪しい奴らを順に殺していく。自分の身を守るためと言って、見境もなく人を殺しあうようになって言った。


人間は、恐怖に負け、その恐怖から人を殺しあう世の中を作り上げてしまった。


この流れは、小さなところでは前半部にあった「自分の弱さとの戦い」をそのまま全世界まで拡大し、しかも自分の弱さに大敗を喫してしまった状態と言えるでしょう。ということで、人間は悪魔との戦いに勝つ前に、人間の抱える恐怖に負けてしまったのです。


悪魔よりも、窮地に陥って自分のことしか考えなくなった人間の方が強かったと言えるのかもしれません。悪魔より人間が怖い。


しかし!明は諦めません!この恐怖社会の発端を作り、人間どもをけしかけ、その社会を俯瞰し、まるで悪魔のゲームのように眺めている(これも伏線だったのか!!)了に語りかけます。


「人間には恐怖を抑えて戦う勇気がある!」と。そう、まだ明は信じていたのです。人間の勇気、強さ、何より愛を。


だから、悪魔に心は打ち勝ったデビルマンを集め、悪魔と戦う決意をします。



トラウマ的衝撃の展開!!地獄に落ちろ人間ども!!!


ここで悪魔でありながら辛うじて「自分」を保った二人のキャラクターで動きが分かれてきます。


あるものは悪魔の体でありながら心を取り戻し人類を救うために奔走する、あるものは身も心も悪魔へと成り下がり恐怖に負けてしまう(そしてこの成り下がり方は、精神を悪魔に蝕まれてしまった他の人間の取り憑かれ方とはちょっと違う。作中にもあったけど「それもまた人間らしい」成り下がり方)。


悪魔に落ちたものとそうでないものとの差はなんだったのか。僕はそれもまた、愛だと思います。



ここまで、7話から人間社会の闇が深くなり、人々は疑心暗鬼に、そして暗中模索しながら本来は殺す必要のない人々まで殺すという事態に飲み込まれてきました。しかし、闇が深くなればなるほどその反対に光も強さを増すものです。このアニメでも全くそう。後半で人間の恐怖が書かれるとともに、それに呼応するかのように希望が強く、強く描かれているのが本当に魅力的だと思います。


それが、ミーコであり、ラッパーたちであり、明であり、そして何より、ミキだと思います。最強の光は、明ではないんですきっと。ミキなんです。ミキこそが、人間の希望の象徴なんだと思います。



無垢な人間を悪魔だと称していたぶり続ける人間たち。そこにデビルマンがやってきて、いたぶりをやめさせようとする。そこでデビルマンがする行動は、必殺技で敵をなぎ倒すでもなく、殴りかかって敵意をむき出しにするでもなく、ただ、いたぶられている人たちの前に立って、涙を流す。それだけ。




デビルマンが本当に戦っているものは、力では倒せない。力を使わずに、訴えかけることでしか倒せない。人を憎み、殺しあう人々に、「なんで人間同士でいがみ合う、殺しあうんだ」、「ともに生きよう」、「恐怖に打ち勝とう」と、そう訴えることでしか倒せない。それは、デビルマンが対峙しているものが力ではなく、人々の恐怖だからだと思います。


しかし、その不動明の心は、明自身だけでは到底打ち立てられるものではないと思います。それは、明も悪魔に心を犯されそうになったから。でもそちらに流されなかったのは、きっとミキがいたからじゃないかと思います。


9話。あのトラウマ必至の9話でミキは、人間たちから忌み嫌われる存在になってしまったデビルマンこと明の誤解を解くために、SNSに書き込みをします。これが、、、もう本当に、、、、、、この物語の救い、、、、、、、、、、、


「心が強い、でも人一倍人のために泣く」「人のために泣いて、人のことを考えて」「そんな心を持っている人なら、それが悪魔でも人間でも、受け入れます」「無条件で愛します」「みんながそう思えば、世界は一瞬で変わる」


そんな心優しい、それでいて強いのが不動明その人なんだと、どうか分かってくれないかと、世界中に呼びかけます。どうか、どうか伝わってくれ、と。その叫びのような投稿は、決して世界中の人々にあまねく届いたわけではない。そのツイートの反応はほとんどが冷たく、ミキの本気を無下にするようにあしらうものでした。このツイートに対する反応も書くというのがうまい。善意は必ずしも誰にでも伝わるものではない、という残酷な一面もしっかり描いています。


それでも、場面戻って人々に涙ながらに訴える明の元には奇跡が起きます。人々は、まだかろうじて人を愛し、恐怖に打ち勝つだけの力を持っていた。


皮肉にもそのきっかけを実際に作ったのは子供でしたが。偏見に満ちた、恐怖に怯えた大人なんかよりも、子供の無垢な正直な気持ちが、恐怖に打ち勝つ勇気を与えた。人を信じる勇気を与えた。


そして、ツイートの返信には「I'm a Devilman, too」という書き込みが。


小さな勇気の集合体が、世界を変える。とは言えなくても、変えることができる。そう希望を持ってもいいんじゃないか、と思わせてくれるこのシーンでした。



そして、僕が9話で一番好きなシーンは、ミキとミーコが語り合うシーン。ここでも結局おんなじことを言ってるんですよね〜。ミーコはずっとずっとミキを羨ましがっていた。その才能が、美貌が、人気が、欲しかたんだと。私もあんたみたいになりたかった、と。


でも、それよりも、ミキが好きだった。その気持ちが、最後には勝ったんですね。最後には、恨む気持ちより、嫉妬より、好きだという気持ちが勝った。そこにこそ人間の希望が見えると思うんです。


誰かを愛することを忘れないこと。それによって人は人を救えるし、人は人と生きていける。それこそが人間の希望、人間の強さなんじゃないか、と、そう思うのです。



しかし。あの怒涛の展開。人間は、かくも脆く残酷なのか。悪魔よりも悪魔的なのは人間だった、という展開に、もう僕は開いた口がふさがりませんでした。


人間の残酷さは、世界をも滅ぼすに至ってしまった。









最後に

さて、このレビューも佳境に差し掛かってきました。ここまでちゃんと読んでくれている方はどれくらいいるのでしょうか?笑
デビルマンとはなんだったのか?


悪魔を体に取り込みながらも、心は人間という本作の主人公「デビルマン」。このキャラクターが本当に伝えたかったこととはなんだったのか。それは、人間の弱さや憎しみなど、負の部分を抱えていても、それを抑えて戦うだけの勇気が人間にはあるんだ、ということだったのではないか、と僕は思っています。


悪魔によって、人間は部外である人々も殺し、その残虐の極みは、希望の象徴だったミキにも及びます。人はわからないことや知らないものに怯え、勝手に恐れを抱き、最後にはその恐れだけで人を殺しても構わないと信じ込んでしまう。


罪のない人間が次々と殺されてもなんとも思わなくなってしまう。協調して、共に生きるという道を一緒に考えることができなくなってしまう。その結果が、最終話で描かれた腐敗した世界だったのだと思います。


そしてこの状況は、現代の世界情勢とも繋がっている。人種差別、性別差別、宗教や恋愛対象などによって迫害され差別されることは、未だ世界中でも起こっている。


というか、一旦は「それはいかん」という風潮だったにもかかわらず最近ではナショナリズムがまた幅を利かせ初めているのが現状(ト◯ンプ大統領しかり、安◯晋三しかり)。デビルマンは、最後にはたくさん登場してきますが、彼らは本当は怖くない。本当は怖くないし、自らを施御することができているにもかかわらず、人間サイドからすると悪魔と一体に見られて攻撃の対象にされてしまう。本当はちゃんと知ってちゃんと相手を信じれば、デビルマンは人間とともに悪魔と戦う味方となるはずなのに、勇気を持って信じることができないと、それはすぐに憎しみへと変わって言ってしまう。


そしてそれはフィクションの、絶望の世界だけの話ではない。人種が違っても、宗教が違っても、ちゃんと話し合って、相手を知って、勇気を持って相手を信じれば、自ずと憎しみ合わずにすむ道が見えてくるのだ、そうデビルマンは言いたかったのではないでしょうか。


人間はそれができずに、最後には絶望的な状況になってしまう。これは、人間が信じあえず、勇気を持って行動できず、その結果愛を無くしてしまった時には、こういう世界が起こり得るんだよ、という強烈すぎるほどの警鐘なのだと思いました。


大切なのは、勇気を持つこと、信じること、そして、愛すること。


愛は最強なのだと、ミキの言葉を借りればそういうことなんでしょう。



最後の最後に、「crybaby」というこの表題。泣き虫といういう意味なのですね(見終わってから知るというお馬鹿。)これは一体誰のことなんだ、というところですが、まあ普通に考えれば明の事ですかね。泣き虫デビルマンは、決して自分のためには泣かない。誰かの悲しみを背負って泣いている。そして、この涙、というものは得てして悲しみの代表でもある。悲しみ。最初と最後のセリフ、これは飛鳥了の言葉なんですけども、これを借りれば、


愛はない。愛などない。故に悲しみもない。


逆に言えば、悲しみがあるということは、愛がある、ということでしょうか。そうだと言えば、この泣き虫デビルマンには愛が満ち溢れていたということでしょう。この愛は誰へのものか、ミキなのか、了なのか、それとも人類なのか。最後まで愛というものに翻弄され、信じ続けたこのアニメ版のデビルマンらしいタイトルだと思います。


最後の了の言動こそ、どんな人間にも心のどこかに愛があるはずだ、という希望を象徴していました。




というわけで、人間の強烈な悪の進んだディストピアを描きつつも、それでも愛を信じるデビルマンでした!!


最後まで(長かったけど)、読んでくださって本当にありがとうございました!!!




1月13日