『累-かさね-』【ネタバレなし感想】 キャスティングまで演出にする、圧巻の演技合戦でした!!!

今回見てきたのは、



『累-かさね-』



です!!!!!!!!



作品紹介

<あらすじ>
伝説の女優を母に持つ淵累は、天才的な演技力を持ちながら、顔に大きな傷がある自身の容姿に強いコンプレックスを抱きながら生きてきた。一方、舞台女優の丹沢ニナは美貌に恵まれながらも花開かず、女優として大成することに異常な執念を募らせていた。累の手元には、その口紅を塗ってキスをすると顔が入れ替わるという、母が遺した1本の不思議な口紅があり、ある日、導かれるように出会った累とニナは、互いの足りない部分を埋めたいという目的のため、口紅の力を使って入れ替わることを決断する。


<公式ホームページ>


<予告編>

「累 -かさね-」【予告】9月7日(金)公開


この作品のすげえところを全部のせしたような予告編。これだけでこの映画がどれだけやばいかわかるかと。



<主題歌>

Aimer 『Black Bird』MUSIC VIDEO 映画『累-かさね-』(9月7日(金)公開・主演:土屋太鳳×芳根京子)ver.


最高。





<感想>

圧巻でした。この一言に尽きます。この映画を何か自分の言葉で形容しようとすると、とてもとても安っぽくなってしまいます。


まず主演女優二人の演技力に圧倒されます。圧倒され続けました。腹の底から出る声というか、「こんな演技ができるのかよ!」の連続の2時間だった。


特に土屋太鳳の異常性のすごさには、開始10分ほどでビビりました。土屋太鳳初登場シーンで「この映画は何かすごいことになるぞ」と直感しました。そしてその通りになった。ツイッターなんかでも、「土屋太鳳がすごい」という声が非常に多く。もちろん芳根京子もすごかったですけども!


ここまで怒と哀の振れ幅の大きい演技が内包された映画はなかなか見れません。いいものを見たな、すごい演技を見せられたな、と素直に感じました。


そして、漫画原作の再構成も見事。正直漫画原作の方は、途中から飽き始めちゃって、13巻くらいで止まっちゃってた気がします。そのせいか、この映画の公開日も頭の中から抜けていて。ぬかったと思います、はい。


漫画の方はなんで飽きちゃったのかっていうと、ひとえに連載漫画の制約が大きかったらなんじゃないかと思っておりまして。というのも、原作の方は、累と美人女優(映画に出てくるニナだけでなく数人いる)との心理サスペンスが主要な構成を占めている、という印象なんです。そしてそれは、連載ものとして、ドキドキハラハラを持続させるための装置として機能しているような気がします。もし連載とかじゃなくて、例えば一巻完結ものとして刊行されていたら、もっと違うものになったんじゃないか、と思っています。


ぶっちゃけ漫画読んでる時は、「累おんなじことバッカやってんじゃん」ていう思いがあって。女優の人生を奪い、しっぺ返しを受けそうになり、また別の女優の元へと去っていく、、、という展開。そこにあまりついていけなかった、と思います。


だから正直映画の方もあんまり期待してなくて。その分衝撃が大きかったです本作は!


そしてその衝撃の基盤を作ったのは、間違いなく最高の設定と最高のキャラクター、そして圧倒的な画力でストーリーを描いていた、漫画原作なんだと改めて思います。漫画を舐めていました。申し訳有りません!!!


この映画の何がすごいかってーと、やはり主演女優とそれを取り巻く脇役の俳優たち(横山除く)、そして舞台演劇界という世界を見事に利用した演出で俳優たちを立てていった佐藤祐市監督の手腕です。なので、力説しようにも「とにかく観て!」というしかない類の映画だと思っています。気になるんだったらとにかく観てください!


とツイートしたらなんと監督ご本人にリツイートしていただきました!やったあ!!!(祝)


てな感じで、今回は「累」という名前に隠された意味、そしてキャスティングという視点からこの映画を考察していきたいと思います。


主人公「累」に込められた意味とは?

この「累」という名前、原作を読んでいた時から気にはなっていたのですが、よく調べもしないまま映画を見ることに。最初見たとき「え?なんて読むん!?」てなった人もたくさんいるはず。


「累(かさね)というくらいだから、きっと唇を重ねるということとかけているんだろう」くらいにしか思っていませんでした。ところが調べて見るとびっくり!


累という字には、「縛る」「悩ます」って意味があるらしいです。これを見つけた時にはお宝掘り出したみたいな気持ちになりましたね。


まさに累は、禁断の口紅で唇を「かさねる」ことによって、自らを「縛り」、自らを「悩ませ」ていたのですね。こうして見ると、この名前がこの作品を丸ごと物語っているかのように見えてきます。


って、多分もうどなたかが記事にしているんだと思いますが。。。


では、累は何に自分を縛り、何を悩んでいたのでしょうか?これについては、いろんな見方ができるような気がします。


まずは自らの劣等感。

累は、幼い頃から自分の顔がにくくてにくくてたまりませんでした。そのせいでいじめられ(原作ほど醜悪な顔ではないのけど、ここはご愛嬌。ていうか子供の累は普通の顔だったよね?)、羽生田のいうとおり、「家族も、友達も、笑顔も、人並みの小さな幸せも」すべて奪われてきました。そしてその経験から生まれた劣等感は、成長してもなお、累を蝕んでいました。


そこに現れたのが丹沢ニナです。彼女は、天性の美少女で女優をしていながらも、その演技力はパッとせず、あんまり人気がない。冒頭累がニナにいうセリフが印象的で、この作品の方向を明確に見せてくれていました。そのセリフがこちら。


「教えてあげる、劣等感ってやつを」


痺れる〜〜〜。累が抱えていきてきた劣等感を、一切経験することなくいきてきたニナ。彼女への劣等感が、口紅を使用したのちもなお、累を動かしていく、という物語でした。


誰しも「あんな顔に生まれてきたら」「あんな能力があったら」と感じたことはあるはずです。ないとしたら相当自分に自信がある成功者。。。


そしてその願望を叶えてしまう累の口紅は、いわば「禁断の魔法」です。劣等感を感じたことがある誰しもが、この口紅を使いたいと思うのではないでしょうか。てか僕も欲しい。この設定を思いついた原作者・松浦だるまは秀逸としか言いようがない気がします。


しかし、累はその口紅を使い、ニナと顔を入れ替えてもなお、劣等感に縛られ続けます。それは、「自分(累)が偽物だから」。自分は顔は入れ替えられても、絶対的に他者にはなれない、という思いが、それまでにはない強さの劣等感を生み出す、そんな風に見えました。


もし、累が魔法の口紅を持っていなかったとしたら、こんな劣等感は感じることがなかったはずです。顔が入れ替えられることで、生まれながらにして祝福されて育ってきた、優越感に浸りながらいきてきた人間の感情を知ってしまった。これこそが「禁断の魔法」でしょう。


「禁断の魔法」とは、顔を入れ替えられる魔法のことではなく、それによって他人の人生を垣間見ることができてしまった、という点にあるのではないか、と僕は思います。


累の口紅は、自分の劣等感を解放するものだったはずなのに、いつのまにか、より一層強い劣等感を産み付けるものへと変化していきました。顔は変えられても、人生そのものは取り替えることができない、ということを知ってしまったからです。


かくして累は、口紅によって「劣等感」に「縛られ」ていきました。


累はついに、ニナの人生そのものを奪ってしまおうとします。「偽物が本物を超える瞬間を」求めて。


そしてラストシーン。ネタバレになるのであまり詳しくは言えませんが、この局面でこの舞台の演目というのもまた秀逸としか言えない。完全に観客を持っていったラストだと思います。


ついに迎える「偽物が本物を超える瞬間」です。二人の人生が一つになり、累はニナを取り込んでしまいます。しかし、その中にいるのは確実に、醜い累。狂気すら感じさせます。


劣等感を累に縛りつけた口紅は、ついに累を違う人間にまでしてしまった。劣等感の行き着く先は、自分の人生の否定です。他人の人生を、強引な形で奪ってまで、自分の人生を捨てようとする様は、恐ろしいものがありました。これは魔法というよりは呪いでしょう。


あのラストをどう思うかは、見た人によって感想が違ってくるんじゃないですかね?悲しくも美しいととるか、美しくも悲しいととるか。


ちなみに僕は前者です。あんな生き方もそれはそれで美しいのではないか、と。なりたい自分になるためには、どんな犠牲も手段も厭わないという執念が、悲しくも美しく映りました。


母親の呪縛

累の母親は、もともと女優をしており、それはそれはお美しく一世を風靡していたとか。しかし累が幼い頃になくなってしまいました。演じるのは檀れいさん。すっげえ美人!歳をとらないですね。。。


そしてその母親の形見として受け取っていたのが、例の口紅でした(ということは母親も…というのは勘の良い方ならわかるかも?)。累にとっての口紅は、自分を羽ばたかせるものであると同時に、母親を連想させるものでもありました。


ここで登場するのが羽生田(はぶた)という人物。この人は累の母・透世とも親しかったらしく、累を演劇の世界へと誘っていきます。


なぜ羽生田が累を演劇界へと引きずり込んだかと言えば、それは彼が、累と透世を重ねて見ていたからに他なりません。そういう意味でも、累は母親に縛られていました。


映画版では羽生田も、とんでもない執着を持っていた人物として描かれていましたね。


しかし累の方はと言えば、最初こそ母親と同じ世界に立つことの喜びを感じていましたが、ラストにはそれは大きく覆っていました。


累が窮地に陥った時や、自分の顔をいまわしく思う時にはいつも透世が幻影として現れ、累をそそのかします。口紅を使うように。他人の人生をも食い尽くすように。檀れいさんの怪しくて艶かしい美しさが光ります。


おそらく累も、母のことが好きだったのだと思います。美しくて、華やかで、成功していて。それに累の圧倒的な演技力は、間違いなく母親譲りです。累がニナの顔をして演劇界で成功できたのは、血を受け継いだ母のおかげだとしかいえません。


しかし、羽生田の本当の狙い、累をこの世界に誘った理由を知った時から、母親に反発し始めます。鏡に映った母の幻影を、口紅で塗りつぶすシーンが印象的でした。これは予告編にもありますね。


これは、羽生田が自分ではなく、自分に重ねられている母を見ていると知ったからでしょう。羽生田に、自分の執念を達成するために利用された。そう思ったのかもしれません。


そして累がとるのは、母親と同じ行動をとりながらも、母親と決別するという矛盾した言動です。「他人の人生を食い尽くそうとする」という、母親がとった行動と全く同じ道筋をたどりながら、母の方を振り返りはしない。


この心理の裏にあるのは、「私は私」というアイデンティティの確立でしょうか。私は私以外の誰でもない。母親ではない。ニナでもない。そうした自意識が、母親との決別を達成させたのでしょうか。


しかし、そのアイデンティティが確立したのも「ニナの人生を食い尽くすことにした」ことによるというのがなんとも複雑で厄介で…。だって誰かの人生を借りることで、自分の人生を確立するってことですよ?これこそ矛盾ですよね。


結局醜い自分を愛するなんてできず、他人の人生を生きることでしか自分を肯定できないんでしょうか。。。


見せるための自分への呪縛

女優という職業は、得てして、人から「見られる」人として生きていかないといけません。それは舞台の上だけでなく、私生活でもそうです。


ニナと顔を交換する約束をした累は、ニナの顔をして街を歩いた感想をこう言っていました。「美人でも、顔見られるんですね」。(確かこんな感じの…)


つまり、醜くて顔をジロジロされていた時とは違った緊張を感じたということでしょう。好意的な視線を向けられることに慣れていないと、すごく不自然に感じてしまうんでしょう。


稽古場でもなんでも、演劇関係者からは美人女優というだけでチヤホヤされ、そしてそのイメージを期待される。雑誌の中で微笑む丹沢ニナからは(その時の中身は累ですが)、劣等感や優越感、異常な執念を持った、複雑に屈折した性格は全く垣間見ることはできません。むしろ、それこそ朝ドラ女優のような、清純なイメージを持たれるような取り上げ方をされている。



ここで思い出したのがデビッドフィンチャー監督の『ゴーン・ガール』という映画です。

ゴーン・ガール (字幕版)
ゴーン・ガール (字幕版)
2015-03-06
Movie


この映画は、突如行方不明になった妻を探すうちに、夫は殺人容疑を抱えられ、異常な執念を持った妻の正体が見えてくる、という話です。


消えた妻が、変質者からの性被害を装うために、ワインのネックで自分のアソコをグイグイつくというシーンがあるのですが、全く興奮しませんでしたね。はい。恐怖に身悶えする気分でした。


この映画で描かれたのは、「女は怖い」ということ以上に、「世間の目ほど厄介で強力なものなどない」「そして、その世間の目は、簡単に操作されてしまうような脆いものだ」ということだったと思っています。


結婚当初は誰もが羨む理想の夫婦だった主人公たちですが、物語が進むにつれてそんなものは当人たちによって操作されたただのイメージだったことがわかってきます。そして事件を追うメディアは、出てきた証拠から勝手にチープな物語を作り上げ、それが「真実」だ、と思い込もうとする。でてくる証拠によって、その「真実」は二転三転します。


消えた妻・エイミの本性は、平気で人をも殺し、旦那を追い詰めるために周到に計画を立てるような、非情な人間です。しかしメディアが作り上げたストーリーでは、強く困難を生き抜いた、誰もが憧れるような女性になっています。このギャップこそが恐ろしい、というんですね。



はい。で、累の話に戻っていくのですが。


女優として生きていくことを恋い焦がれた累は、最後にはニナの人生も食ってしまおうとします。それは、かつて累の母がそうであったように、栄光のスポットライトを浴びた華々しい人生へと向かっていくように一見見えます。


しかし、その母の本性も、かな〜〜り残酷な人間でした。そしてその母の人生をなぞるように生きる累も、この残酷な未来が待っていることが暗示されているようです。


もし、この映画のラストの先で、累が「完全にニナの人生を食い尽くして女優として生きていく」のなら、顔は誰もが惚れる美人だが、内面は醜いまま、ということになります。だから外見と本性とは全く違うよ、ということになるんですね。この設定も秀逸だーーー。


外に見せる顔と誰にも見せない裏の顔があるって、誰しも少しは思い当たる節があると思うのですが、こと女優ともなると、背負うものは世間の目になります。映画やドラマを見ながら「どうせこいつ本当はくそビッ◯なんだろ」って思ったこと、ありません笑?僕はありますよ。


「演じる人間(役)」と「演じている生身の人間(女優)」という、二重の顔を持ちながら、女優さんという人間は生きているのですね。そして累は、その人生を歩むべく、計画を実行していく。


こうすることによって累は、栄光と引き換えに、「丹沢ニナという”表の顔”で一生生きていかないといけない」という宿命に縛られていくのではないでしょうか。見せるための顔を演じながら生きていく人生は、累の場合、一見栄光に満ち溢れているような体を装いながらも、その実絶望的なものに見えます。


ダブル朝ドラ女優を主演に抜擢した意図とは?

さて、累についての意味を考えて見たところで、僕が一番この映画を推したい理由について書いていくことにしたいと思います。それはそう、清純派女優二人を、このおぞましい人間のサガを描いた本作に抜擢したということ!


今回ダブル主演をはった土屋太鳳芳根京子。この二人の共通点と言えば?


答えは、「二人とも朝ドラの主演をやっている」ということです。


僕は土屋太鳳さんがやっていた『まれ』という朝ドラを見ていました。この女優さんは『るろうに剣心』の時から気になっていたので。朝8時から15分だけ毎日放送されるのを毎日録画して見てましたねえ。


芳根京子も、こないだやっていた『べっぴんさん』で、子供服メーカーを立ち上げるキャリアウーマンという役をやっていました。こちらは見ておりません。朝ドラはどうも朝が早い人向けなんでしょうね。。。


朝ドラといえば、やはり「清純派」の代名詞というイメージがつきものです。スキャンダルご法度。


不純なストーリーにはならないし、主人公は夢を叶えなくちゃ!健気でお茶目で、しばしばドジっ子。それでも夢に向かってひた走る姿に、全国のお茶の間が「今日も頑張ろう」と思えるような主人公を演じないといけません。


明らかに、今作のドロドロした感じとは真逆ですね。なのにこの二人を主演に選んだ。これは間違いなく狙ってやってると思います。


土屋太鳳に関していえば(芳根京子さんはあんまり詳しくないのでなんともいえないんだけど…)、そのストイックな性格も有名な話です。出身は日本女子体育大学で、ダンスを特技としている、体育会系女子としても知られています。


例えば。ブログを毎日更新している彼女ですが、その長文ブログがすごい!実は僕一時期(確か受験期かな?)土屋太鳳のブログを読むのを日課にしていたくらいです。元気が出るんですね。今では、インスタの投稿をブログに転載するという方法で毎日欠かさず続けているようです。



試しに一記事のっけとくので、気が向いたら読んで見てください。これはすごい。読むのに5分じゃ足りないくらいの分量にはなっています。しかも、彼女のすごい熱量が伝わってくる。これを毎日続けるとか。。。仕事でもないのに。。。(僕ももっとブログ頑張らなきゃ…!)


あるいは現在放送中の『チアダン』というドラマの番宣で出た、TBS「オールスター感謝祭」のマラソン企画では、ほとんど過呼吸になりながらも、少しでも注目度をあげるために全力で走りきったことも話題に。どんだけ情熱的だよ!ちくしょう!!



土屋太鳳 感謝祭ミニマラソン 命懸けの番宣 オールスター 失神寸前 2016


という、「生きる朝ドラ」みたいな人なんですね土屋太鳳。だからこそ、人気が出たのだと思うし、決して人に嫌われない女優さんですよね。顔ではなくて性格で売れる、っていうところが、稀有な存在です。


それもあって、良くも悪くもこれまで優等生な役しかやってこなかった印象があります。やはりそのイメージを崩せなかった。悪役なんてとんでもないし、性格が悪い役は、女優としての性質としても、相性が悪い。


それは御免なさい情報量が少なすぎますが芳根京子さんも同じことで。朝ドラ女優、という看板は、それほどまでに大きなものだということなのでしょう。確かに、今やってる永野芽郁さんが悪いやつやってるとか、想像がつきません。


それだけに、今作の配役は誰もが意外だったのではないでしょうか。清純派を破り捨てて、徹底した劣等感と優越感を兼ね備える二人を演じるという。これはキャスティング的にもチャレンジですよね。そしてだからこそ観客にも意外だったという。


ただ、それにはこれまでのイメージを払拭するくらいの演技量が求められるわけで。ハードルはだだ上がりです。


しかしこのチャレンジは、結果として大成功だったと言えるでしょう。だってこんなに二人とも演技が強烈なんだもん!これが中途半端な作品に仕上がっていたら、と思うとゾッとします。


とうわけで、このキャスティングは、観客の意外性を狙ったものだったと思います。しかし、それだけじゃないんじゃないのか?というのもこの作品を考えて見て思ったことがあります。


キャスティングそのものが、この映画にとっての重要な演出だったのではないでしょうか?


映画にしかできない、キャスティングという重要な演出方法


先ほど、「見せるための自分の呪縛」ということを書きました。それとこの清純派女優の起用、というのは、実は繋がっているんじゃないかと。


ぶっちゃけ、土屋太鳳って超絶美人として売り出されたわけじゃないと思うんです。なんていうか、あの〜そう、顔だけならもっと上の人っているっちゃいるよね…?ていう。


もし、このキャスティングじゃなかったら、一体誰がニナ役にふさわしかったかな〜?て考えて見たんです。まず絶対的な美人で、演技力も抜群で、なるべくダークな役をすでにやってきた人がふさわしいですよね。


そしたら真っ先に出てきたのが新木優子でした。『悪と仮面のルール』では、幸薄でキャバ嬢をやっている儚げな女性を好演してしていました。しかも間違いなく美人。


それについてはこちらをどうぞ。


あと誰だろう…?二階堂ふみとか?松岡茉優とか?小松菜奈とか!


いっぱいいたと思うんです。でもなぜ、今までダークな役をやってこなかった女優二人に絞ったのか?その理由こそが「見せるための自分の呪縛」を見せるためなのではないか、と僕は思っています。


さっきも言った通り、女優という仕事は、私生活すらも固定されたイメージを期待される職業ですよね。清純派女優は品行方正を求められるし、逆に尖った役ばかりをやらされてる人は(沢尻エリカとか?)私生活まで尖ってんじゃねえかって目を向けられがちです。


そんなおり、けんたのCMを演っている高畑充希がケンタを買って帰宅するところを撮られたのはほっこりするニュースです。そうそう、そういうのが欲しいの我々は!ていうかケンタくらい好きにかわしてやれよ!


一方で、同じ時期に吉澤ひとみが飲酒運転で捕まっているのも事実。清潔感を求められる元アイドルという肩書きがあったからこそ、ここまで騒がれたのだと思います。


そしてその品行方正を求められる清純派の代表格こそが、「朝ドラ女優」という肩書きではないでしょうか。彼女たちの私生活や本性も含めて、観客である私たちは品行方正で純粋さを求めている。そんな風に思います。


そしてそれは何より、累とニナについてもそうです。彼女たちが「見せるための自分」に縛られていく様子は、美しくも絶望的に映ります。


誰しも自分じゃない誰かになりたがっている。劣等感を克服できるよう、他人を無い物ねだりで見ている。そして究極には、自分の人生なんか放棄して、自分の願望のためになら、他人を演じる人生だって演じてしまう。


この突拍子もない話に、ある種の説得力があるのは、その突拍子もない残酷な姿を演じているのが、世間では純粋を期待されている「朝ドラ女優」の二人だからとは言えないでしょうか。


もしこれがダークな役柄をこれまで演じてきていた女優さんだったら、これほどまでの異常性は感じられなかったのではないでしょうか。純粋と言われてきた女優二人だからこそ、その実狂気をも感じさせる役が、逆にしっくりと見せることができたんじゃないですかね。


この二人の演技には、「もしかしたら土屋太鳳や芳根京子もこんな風におぞましい人間ななのか?」と思わせてしまうような説得力がありました。それは、普段私たちが見ている姿が、とても優等生だから。


新木優子や小松菜奈がやったら、おそらくぴったりではあるでしょうが、なんだろう、そのまんますぎてここまでの説得力はないかもしれません。とても良い演技をしていても、おそらく映画の中だけのものになってしまうと思います。


今作がそうなっていないのは、何度も言いますが、演ってる女優にギャップがあるからです。普段のイメージがあるおかげで、現実のことと地続きにこの映画を見ることができる気がします。(あ〜〜〜言ってること伝わってるかな?)


この映画は、女優のイメージというものを逆手に取った上で、逆に利用し、演出にしていると言えるでしょう。これは人が人を演じる演劇でしか成し得ることができません。


僕は、この女優のイメージをも利用するキャスティングはもはや演出といってもいいのではないかと思います。その点において、この映画は他に例を見ないものになったのではないでしょうか?


なぜこの累役は難役なのか?

最後に、主演を演じた二人についていかに凄いか!?ということを書いて終わりにします。


「てかこの”淵累””丹沢ニナ”って、そーーーとうな難役じゃね!?」と見ていて思いました。思いませんでした?


まず、二人のキャラクターが強烈すぎます。


累は、圧倒的な劣等感の塊。昔から顔のことで自分の殻に閉じこもっていました。鬱々としたその雰囲気を出すのはただ事ではありません。そして後半では、雰囲気転じて強烈な執念を見せる悪魔の顔へと変貌してく。このギャップも大事です。


一転して丹沢ニナも相当なキャラです。顔がいいことをいいことに、他人を見下す残酷な目線を累に向けます。これも相当ぶっ飛ばないとうまくはまらないでしょう。まあぶっ飛び具合が最高に気持ちいいんだけど。


ただでさえ強烈なキャラを演じているにもかかわらず、それだけでは全然終わらないのがこの二役です。何と言っても、顔を交換する、という設定が効いています。


顔を交換することによって、全く正反対の人間を土屋・芳根の二人で共同作業で作っていかないとならない。一個前のシーンでは累だったのに、次のシーンでは全く性格の違うニナを演じる。こんなことはなかなかあるもんじゃありません。


テンションも、言動も、一挙手一投足もその役じゃないと、見ていて不自然に移ってしまいます。もちろん視覚的にどの役をやっているかわかるようにはなっていますが、それだけじゃもちろんなくて、演技で見せないといけない。


そしてそして、累のキャラクターもかなりハードルが高いです。なんたって、「天才的な演技力を持った少女」の役なのですから。


見る前は、「演技が上手い、っていう演技ってどうやってやるん?見るじゃね?」と思っていました。これに関しては、演出も相当効いています。演出家のイメージに入り込む演出や、ライト、カメラワーク等々で、演技の半端なさを演出していました。


それにしても、女優が上手じゃないとこれは成り立たないでしょう。そもそも設定が無茶すぎますよね。「ハイ、じゃあ演技が上手な演技してくださーい」っていわれるなんて、どんなプレッシャーだよ!と思います。


加えて、ニナの不器用な演技もしないといけない。特に土屋太鳳は、そのどちらもすることになるので、相当難しかったんじゃないかと思います。で、確かに見てると、どっちがどっちなのか(中身と外見がどうなってんのか)がはっきりわかるようになっている。これはすごいです。


仕草や言い方まで、お互いにそっくりにして、打ち合わせた上で演技してんだろうな〜というのが伝わってきます。土屋太鳳も芳根京子も、おんなじ人を演じないといけない。それも二人分。これはすごいですよ。


しかもしかもしかも、ここからが本当に凄いところなんですが、あるアクシデントを機に、累とニナの性格が反転するようなストーリーになっているんですよ。その入れ替わりも考えないと。だからそのシーンの時間軸によって、演技が全く変わってきているんですよ。これも頭いいれないといけない。


で、結論どうだったのか、というと、全て完璧と言っていいほどに素晴らしかった!


単純に一つの役をこなすのも難しいだろうに、正反対の性格を、二人分演じきり、演技が上手という無理設定をやりこなし、その上時間軸も気にしてキャラクターを演じ分けられる。なんという女優さんだよ!と見ていて思わずに入られませんでした。だからこそ、冒頭に書いたように、「凄い演技を見たな…」となってしまうわけですね。


この映画をやり通すことがそもそも難しい上に、それまでの女優としての経歴を踏まえ、さらにプレッシャーを抱えた上でのこの演技!拍手です!!!


最後に:


今作で本当に口紅を使うべきだったのはただ一人だけ、横山祐!お前だ!ただのヒキニートにしか見えないぞ!!!そこだけ不満なんですよね〜。


さてさて、こんなに長文になるとは全く思っていませんでした。疲れた。


2回目ですが、オススメするときには「とにかく見て!」としか言えない類の映画です。胸糞系の映画が嫌いという人には遠慮をお勧めしますが、そうでなければ、きっと度肝を抜かれるものになってると思いますよ!



・追記:
…土屋太鳳のあそこには本当にホクロがあるのか、とても気になっています。。。




長いのに最後まで読んでくださって、ありがとうございました!!!!