【ネタバレあり・感想】『孤狼の血』「仁義」vs「外道」。道を外れたものたちのナンセンスに、目を覆い、笑い、泣く。

今回見て来たのは、


『孤狼の血』


です!!!


公式HP


予告編

『孤狼の血』スポットCS用危険度C



「仁義」vs「外道」。道を外れたものたちのナンセンスに、目を覆い、笑い、泣く。



白石和彌監督の描く、「擬似家族」

白石和彌監督という人は、これまで「擬似家族」について描いてきた監督でもあります。(『サニー32』という作品の試写会に行った時に、本人もそうおっしゃっていました。)


『日本で一番悪い奴ら』では、警察官である主人公と犯罪者たちを家族のように描き、前作『サニー32』では、教祖と教団員(ていう説明で良いのか?)の関係を新しい家族の形として描いていました。ちなみに『サニー32』は試写会に行ったにもかかわらずそこまではまりませんでした…笑。


さて今作ではどのように「擬似家族」が描かれているのか、という点ですが、『孤狼の血』という作品を考える上で、ここが非常に大事な読み取り方になっていると思います。


まず「極道」という存在自体が強烈な「擬似家族」の形であると言えるでしょう。現実に「擬似家族」というものを想像する上で一番わかりやすい形だと思います。親分のことを「親父」と言い、盃を交わして傘下に入ったところで「息子」同然になる。極道の方々は、人によっては本当の家族よりも強固な絆で結ばれた「家族」になっています。


しかし、この映画がいわゆる「やくざ映画」だからそんな話をしているのではありません。この映画は「やくざ映画」であるよりも、「警察映画」となっているからです。今作における「擬似家族」の形は、極道の関係性に止まってはいません。



主人公である大上、通称「ガミさん」は、新人刑事である日岡とコンビを組まされます。マル暴なのか極道なのか見分けがつかないほど粗暴で派手な格好をしている大上と対照的に、日岡は典型的なエリート刑事で、出身大学から「ヒロ大」と呼ばれています。(本作の舞台広島では、広島大学出身ということが割と重要なんでしょうね。)


最初こそ対立し合う二人。しかし、大上の思いも寄らない姿を日岡が見ていくことから、その関係性は徐々に変化していきます。バーで酔っ払った日岡が漏らすように、日岡はだんだんと大上のことを尊敬し、最後には「すんごい刑事だと思います」とまで言わせしめる関係性になるのですね。


一方、日岡は実は大上の行動を監視し、監察官に密告するという役割も背負わされていました。要するに「大上をスパイしろ」と上層部から言われていたのです。大上と反発していた頃は、それこそ使命に燃えて大上をスパイする日岡ですが、次第に上層部の姿勢の方に反発を覚えています。


こんな風に、大上と日岡の間に芽生えた絆こそ、本作の中の重要な「擬似家族」の形だと思います。日岡の報告書を実は大上が見つけていて、その報告書にダメ出しの赤を入れていた、なんて下を見れば明らかです。日岡は大上に対し尊敬の念を抱いている。そしてその一方、大上は日岡を息子のように実に暖かく見守っていたのでした。最後にはバディという関係を超えて、父と息子のような二人に見えます。


しかし、これだけでもありません。大上には仕事仲間というか情報やというか、そうしたパイプがありました。かな〜り怪しい関係でもありますが笑。


その一人が、バーのママである里佳子(演:真木よう子)です。極道もよく訪れるそのバーのママは、極道と深く関わっていて、また極道の中を仲裁する、なんて役割も担っていたのでした。このママにとって大上は、その心中をよく知る存在であり、さらには自身が起こした殺人もかばってくれた命の恩人でもありました。


また、全日本祖国救済同盟の代表、瀧井銀次(演:ピエール瀧)もまた大上と深く関わっている一人です。彼は恐妻家でもあり本作のコメディリリーフでもありますが、それと同時に大上と長い関わりがあり、彼の協力者として動いていたのでした。


こんな風に、大上の周りには里佳子や銀次といった面々もあり、この人たちをも含めて「擬似家族」として描いていたように思います。


一方、極道連中とも関わっていた大上ですが、極道の方にはこうした「擬似家族」に入りそうな連中はいませんでした(まあ銀次は極道みたいなもんですが)。こうしたところに大上のスタンスが描かれています。銀次が劇中で言っている通り、「極道はコマ」にしか過ぎないのです。この街の平和を守るためにうまく利用して、中を取り持って、戦争が起きないように動き回るのが大上の信条でした。カタギを守ることこそが、大上の信条だったのです。だから、極道とつるみこそすれ、家族になろうなんていうのは全然違うのです。


そして最後には、大上の「擬似家族」とそれに対立する組織との対決、という展開になったことからも、本作の「擬似家族」の描き方が顕著に現れていると思います。大上にとっての「仁義」とは「カタギを守ること」であり、そのカタギの中心にいるのが「擬似家族」ということなのだと思います。



「正義」vs「悪」

さて、今作は日岡の視点で描かれた映画になっていました。主演は役所広司なんですけど、あくまで主人公は日岡なんですね笑。


日岡は最初、「正義」に燃える男でした。エリートの出で、教科書通りの価値観しか持っていない。だからその教科書に真っ向から反する大上が認められないんですね。日岡が大上に「正義とはなんじゃい」と聞かれるシーンが印象的でした。その問いに対して日岡は、


「極道を撲滅することです」


と返します。これぞ教科書!とでも言わんばかりの発言ですね笑。反政府組織である極道は無くなるべき存在であり、それを実行するのが警察だと。つまり、彼の中には「警察は正義、極道は悪」という絶対公式が成立していました。だからこそ警察上層部の指示に従って大上をスパイしていたのです。


では「正義」の反対、「悪」はなんだ?と言われればそれが「極道」だと。市民の生活を脅かしなんやらかんやらと続きそうですね。また日岡は”最初”タバコ吸わないんで、体に害悪なタバコも「悪」の一つだったのでしょうか?喫煙者としては結構きついですけど…。これもまた世間の価値観をよく反映している気がします泣。


そして、「正義」の側にいるべき警察にもかかわらず「悪」の極道と繋がっている大上は日岡の絶対公式に背く異端者でした。極道と関係のある一般人の家に放火して警察沙汰にしたり、拷問同然の形で取り調べをしたり。やってることは無茶苦茶です。それこそやり口は極道と同然。その姿に反発するのも無理はありません笑。


さらに、極道とも付き合いがあり、お金をもらっていたり、里佳子のお店で一緒に酒を飲んだりと普通に付き合いもあります。これもルール違反。警察と極道の癒着と言われてもなんら言い返せません。


しかし、大上がしている行動には全て意味がありました。その根本は、極道の間で”戦争”を起こさないようにするためでした。広島極道の二台派閥、尾谷組と五十子会。その間では常に緊張が走り、ある事件をきっかけにしてその緊張が臨界点に達しようとしていました。大上としては絶対にカタギを巻き込んだ物騒な戦争は防がなければいけません。攻撃を仕掛ける五十子会を止めるために、警察の手によって五十子会にけじめをつけさせないといけない。そのために大上は、事件解決に走ります。



「仁義」vs「外道」

その大上の姿に気づいた日岡の心境には変化が起こりました。その心境の変化を決定づけるのは、大上の「日記」を発見したことでした。


兼ねてから監察官に「大上にはこれまでの極道との日々をまとめた『日記』がある」と言われていた日岡は、大上の部屋でやっとその日記を見つけます。(この設定ちょっと少女漫画っぽいなって思ったんですけど、それは最後にひっくり返されましたね。実際、あんな粗暴な刑事がメルヘンチックに日記なんてつけてるはずもなく笑)


その日記の正体とは、極道ではなく”警察”上層部の悪事をまとめたファイルでした。世に知られていない数々の警察官の悪事。とても人様に見せられるようなものばかりではありません。そしてそれを発見した日岡の心境は…。


これまでの絶対公式であった「警察は正義」が、根底から覆ってしまったのです。警察だって悪いことをする。そのことに日岡はショックを受けます。そして大上は、その警察の不祥事を握っていることでかろうじて自分の警察としての身分を保っていました。上層部の不祥事を握ってなかったら簡単に処分されていたでしょうね。


日岡のこれまでの正義と悪の構図は全くの無意味になってしまいます。では何を信じるのか。何を信念として警察をやって行くのか。ヤクザをただ撲滅すれば良いという話でもなく、警察を完全に信じ切れるわけでもなく。


そうした日岡のこれまでの価値観が無意味になって行くと同時に、彼の内面に芽生え始めたのが大上の信ずる仁義でした。正義と仁義って何が違うんだよ!と思う方もいるかもしれません。僕も実際わかりません笑。でもなんとなく、仁義の方がかっこいいじゃないですか笑。


仁義とは、僕の中では、人の道にそむかないことだと思います。正義との違いは、その価値観を決定する物差しが社会的なものか、自分が信じたものか、という点。大上は、社会的に正義とされているどうりには全く背きながらも、自分の信じる「カタギを守る」「何も悪くない奴を守る」という仁義にただしたがって、警察と極道の間の綱渡りをしていきます。


大上の、自分の信念を頑なに守る姿が、終盤の日岡の姿に重なります。この構図で見てみると、最後の展開が腑に落ちるのではないかと思います。


大上は死に、そのショックに打ちひしがれる日岡。しかし、大上の保っていた仁義を何とかして貫かなければいけない。そのためにはどんな手段だって使ってやろう、と。そして日岡のとった行動は、両サイドの極道を騙しきり、彼らを完全に殲滅することでした。これまで誰も踏み入れなかったところにズカズカと踏み入って、敵味方関係なく、極道に復讐を果たします。


これはなんでか?最初は「大上が守って来た尾谷組さえも壊滅に追いやってしまうのか」と思いました。それでは大上がしたかったこととは違うだろう、と。


しかし、もはや戦争は避けられない事態となった今、極道の世界全体を丸ごと弱体化させることが日岡の狙いだったのではないかと思います。大上も、極道である尾谷組を守りたかったわけでは決してなく、戦争が起きないように仕方なく生かし続けていただけ。日岡の行動は、「もう誰も傷つかないように、極道を半殺しにじた状態で飼い慣らしてやろう」という魂胆だったのではないかと思います。実際、五十子会と尾谷組という二大派閥のトップが、片方は死に、片方は逮捕された状態では、極道も派手な戦争ができないでしょう。そして、警察サイドにも「貸し」を作ることで、警察上層部の行動も手綱を握ることができ、広島(呉原)は、晴れて日岡のしたいようにコントロールのきく状態になりました。


こうして、大上/日岡の「カタギを守る」という”仁義”vs極道/警察の自分のことだけよけりゃあ他はなんでもいいという”外道”の戦いにひとまず決着がつきました。そしてこの戦いは、これからも続いて行くのでしょう。


最後に

公開されてから時間が経ってしまったこと、仁義とか外道とかと言い始めてしまったことから、自分でもひどい記事になったな、、、と思っております。反省です。今後もなんども見て行く映画になると思うので、その度に書き直して、徐々によくしていきますので、今日のところはこんなんで勘弁してください。。。どうも難しく考える癖があるみたいだ。。。全然難しい話なんかじゃないのに。。。


誰もがいっておりますが、松坂桃李はとんでもない役者さんになる片鱗が見えまくっています。前作の『娼年』といい今回といい、ダークなやく所ばかりでとんでもない名演をし続けているかれ。これからどうなってしまうのでしょうか・・・。ライトな松坂も好きだよ!


ただ!!一つだけ言えることは、日本映画史上まれにみるバイオレンス!ナンセンス!どうだここまで行けるんだぞ!!という日本映画への挑戦状のような力のある作品だということ。そういった意味では、『ミスミソウ』もその手の感じがありますが、こちらは今や主役級になった面々がこれでもかというほどその演技力を発揮しています。きっと演じてて楽しかったんだろうな〜と思います。こんな映画はこれから何本作られるかわからないな、というところを感じています。


ぜひぜひ!!!この機を逃さずに、劇場でご覧ください!!!



最後まで読んでくださってありがとうございました!!!